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ロシアとMacと日本語

カテゴリ:本( 354 )

d0021786_13385054.jpg舞台は長崎県西海市。叔母に「あんたはいつも片目を閉じてるから駄目なのよ」、「片目を閉じてるから、世の中の半分しかまともに見えてないんだよ」と言われた。

小学校3年の時、左の眼が突然見えなくなってしまった。でもうちに帰ると祖父が亡くなっていた。目の異常を誰にも言えぬまま、目は2日ほどですっかり回復した。そしてそれ以後も時々左の眼が見えなくなり、2、3日後には、元のように戻るのだった。

新人賞を受賞したぼくは、その後短編は書いたがぱっとせず、長編第二作目を編集者に催促されるがちっとも書けない。そんな僕は由紀子というスナックで働く彼女と住んでいる。気立てのいい彼女についつい皮肉を言ったり、彼女のすることにケチをつけて自分の憂さ晴らしをし、由紀子を傷つけるが、そのことに全く気付いていない。

そんな時、寺井から電話がかかってきて、向かいの喫茶店で待っているという。寺井とは10年前、一人の女性・映子をめぐって三角関係になり、ぼくの子供を宿した映子を道連れにぼくは心中しようとした。だが心中は失敗に終わり、二人とも生き残った。映子は彼のもとから姿を消し、どこにいるかわからなかった。そのことがずっと気になっていた。しかし、寺井の彼女のことを聞きたくないのかという問いに「聞きたくない」と答える。そして、あのことはもう終わったことだと僕は言うが、寺井は「終わってないから、おれたちはこうして会っているんじゃないのか」と追及する。

結局、ぼくは映子とのことを自分の中で何も決着をつけていないことに気づき、彼女の居場所を探し始める。そして、ようやく彼女の居場所を突き止め会いに行くのだが…。

かなり身勝手なぼくの存在に、嫌気がさしてきました。自分の周りの人間に対する気遣いがあまりにもなさすぎ。自分のやりたいこと、言いたいことをただやるだけという幼児性が抜けない、大人になれないぼくの存在。そして彼を取り巻く人たちのやさしさ。それが唯一の救いであった。

「ビコーズ」 佐藤正午著 光文社文庫 1988年5月20日発行 420円
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by irkutsk | 2017-05-26 13:39 | | Comments(0)

d0021786_10494524.jpg「たそがれどきに見つけたもの」をはじめ「その日、その夜」、「末成り」、「ホール・ニュー・ワールド」、「王子と温泉」、「さようなら、妻」が含まれている短編集です。

「たそがれどきに見つけたもの」はフェイスブックで高校生のクラスメイト伊智子と久しぶりにコンタクトをとることになり、彼女に会うことになった朱美の物語。かつて高校生時代、彼女は卯月君が好きだったのだが、現在の夫・多田君にラブレターをもらったことから、彼と付き合い始め彼と結婚した。可愛い娘も授かったが、1歳になる前に死んでしまった。久しぶりに会った伊智子の話によると、彼女は多田君が好きだったらしい。朱美は自分もまだ卯月君に会ってみたいという思いがあり、伊智子もやはり今でも多田君のことが好きなんだろうかと思ってしまう。

「その日、その夜」の舞台は12月21日、冬至の日。きむ子はかぼちゃのいとこ煮をつくるつもりで買い物に出かけた。きむ子は小説家である。本名は木村多賀子。名前をもじって苗字にし、高橋きむ子とペンネームをつけた。35歳で初めて単行本を上梓した。賞をもらい年収が大台に乗ったところで、東京でひとり暮らしを始めた。40歳だった。だが勢いがよかったのはわずか2,3年。その後は収入もなみの会社員クラスに落ち着き、きむ子の気持ちも仕事があるだけありがたいというところに落ち着いた。そしてこの日、きむ子は作ったかぼちゃのいとこ煮を食べることなく持病の心筋梗塞でひとり亡くなったのだった。

「末成り」はフルパートタイムで働く五十代組ふたり、四十代組ふたり、三十代と二十代の若手組ふたりの話なのだが、40代のゼンコ姐さん(本名・内田善子)は真偽も疑わしい過去の色恋沙汰の話でみんなを盛り上げていた。

「ホール・ニュー・ワールド」はコンビニでアルバイトとして働く53歳の智子が深夜勤務をやるようになり、朴青年と二人で休憩することに。そして、だんだんと若い朴君に気持ちが引き寄せられる智子の心の内が描かれている。

「たそがれどきに見つけたもの」 朝倉かすみ著 講談社 2016年2月22日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2017-05-23 10:49 | | Comments(0)

d0021786_10131730.jpgこの小説は東京第一銀行永原支店で働く様々な年齢や役職の行員たちの姿が描かれている。外から見ていると一見華やかに見える銀行員という職業の本当の姿が、筆者の経験をもとに実にリアルに描かれている。

物語は10の短編をまとめたものになっているが、全体で大きな一つのストーリーとなっている。

ノルマを達成するために容赦ないパワハラが横行する。銀行内でなくなった100万円を事故として報告することなく、役職者で金を出し合って事故を無かったことにする。みすみす損をすると分かっている投資信託を売らせる。ATMに入れるお金を金曜日の夕方に失敬して、ギャンブルに使い、当たったお金で月曜日の朝一番に返しておく。倒産しそうなことがわかっている会社に融資して、融資実績を上げる等々。

銀行の内情を知る筆者だから書けるミステリーである。

「シャイロックの子供たち」 池井戸潤著 文春文庫 2008年11月10日発行 630円+税
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by irkutsk | 2017-04-29 10:12 | | Comments(0)

d0021786_9542123.jpg本書は2部構成になっている。第1部「恋」では、タカラジェンヌの母親を持つ蘭花が大学に入学し、大学の管弦楽団に入る。彼女は幼いころからバレエとヴァイオリンとピアノを習っていた。その大学の楽団に指揮者として来ていた茂美星近。彼は4年生のフルート奏者・稲葉要子先輩と付き合っていた。

やがて稲葉先輩は卒業し、茂美と別れ、蘭花が彼と付き合うようになる。そして蘭花4年生の最後の演奏会の当日、やって来た稲葉先輩に「ナナコさんにもう会った?」と聞かれる。「あの人には苦労するわよ」と言われたが、蘭花は何のことかわからなかった。だが、やがてこの言葉の意味を知らされることになる。

茂美は音大の恩師・室井に紹介されて蘭子の大学の管弦楽団の指揮に来ていたし、室井が海外へ行くときには助手として同行していた。その室井の妻が「菜々子」だったのである。恩師の妻と茂美の関係に悩むことになる蘭花だったが、その結末は意外なものだった…。

第2部「友情」では同じ大学の管弦楽団でやはりヴァイオリンを演奏する瑠利絵の視点から蘭花のこと、蘭花と茂美のこと、そして蘭花に比べて全然美人でなく、また明るくもない自分のことが描かれている。彼女は蘭花の親友だと思っていたが、蘭花はそうは思っていなかった。二人の気持ちのすれ違いが、蘭花と茂美をめぐる関係でやはり意外な結末を迎える。

異なった二人の視点から、一つのストーリーが描かれており、興味深く読むことができました。

「盲目的な恋と友情」 辻村深月著 新潮社 2014年5月20日 1500円+税
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by irkutsk | 2017-04-28 19:52 | | Comments(0)

d0021786_5484580.jpg舞台は埼玉県川越市。川越運送店に勤めるハルさんは、同じ店に同居している観光案内所の柚原さん(三十代後半だがスタイルもよく20代に見られる)とアルバイトの大学院生・大西君とガラス店兼工房を経営している葛城さんと4人で毎日ジョギングをしていた。

ジョギング中のある日、三日月堂という活版印刷の店に電気がついているのを見つける。三日月堂は5年くらい前に閉店し、その後店主夫婦が亡くなって空き家になっていたのである。不思議に思って覗いていると、中から人が出てきた。

弓子さんである。彼女はこの印刷所を経営していた老夫婦の孫娘で28歳である。彼女とハルさんが初めて会ったのは、ハルさんが川越運送店で働き始めた頃で、弓子さんが小学校にあがる前。細い路地をお父さんの後ろから歩いていた弓子さんは、お父さんに呼ばれて駆け出した拍子にきらきら星のついたキーホルダーを落とした。「落としたよ」と声をかけ彼女にキーホルダーを拾ってあげたのだった。お母さんにプラネタリウムで買ってもらったものだと言い、でもお母さん死んじゃったと言った。弓子ちゃんは三日月堂をやっている祖父母の家に預けられ、週末だけお父さんがやって来ていたのだった。

弓子は川越運送店のパート募集の張り紙を見て、働きたいとやってきた。面接をし、パートとして採用した。ハルさんは昔、高校を卒業したときに自分の名前の入った三日月堂のレターセットを両親からもらったことを話し、今年高校を卒業し、北海道の大学へ行く息子の卒業のお祝いに、やはり自分がもらったのと同じレターセットを息子に送りたいと思っていた。弓子さんは学生時代、祖父母の印刷所を手伝っていたので、印刷機の使い方も知っていたし、機械や活字もすべてそのまま残っているので、やってみましょうということになり、機械の掃除、点検を始め、レターセットを印刷した。

これをきっかけに、活版印刷三日月堂は再び動き出した。そして活版印刷三日月堂をめぐる物語が3つ書かれている。それぞれの物語が読者をぐいぐいと本の中へ引き込み、1日で読み終えてしまった。

「活版印刷三日月堂」 ほしおさなえ ポプラ文庫 2016年6月5日発行 680円
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by irkutsk | 2017-04-07 07:00 | | Comments(0)

d0021786_1054244.jpg「はじめに」で著者は次のように言っている。「自分という存在は、どこまでが自分なのかと考えると、少し事情は複雑になるだろう。一枚の皮膚に囲われた内部が自分である。生物学的に言うとそのように言えそうだが、実は私たちの自己の内部には他者をも棲まわせている。単に哲学的な思考の枠組みではなく、生物としての私たちの生命の内側には、他の生命が棲み着いているのである。」

「生命の誕生に際して、細胞(生命)が膜によって区画されたとき、細胞は同時に決定的な自己矛盾を抱え込むことになってしまった。膜によって外界と隔てられなければ生命としては存在できないが、いっぽうで、外界と完全に隔離されてしまえば、これまた生命としての活動を営むことはできないのである。」

「生命が生命であるためには、代謝活動が必須である。」「つまり生命は外部に対して「閉じつつ、開いて」いなければならないのである」。

また、「生命の本質として「変わりつつ、変わらない」という性質も極めて大切なものである。外の変化にやわらかく対応し、それをやり過ごしつつ、己はしっかりと維持していく」。

第一部第1章では口から肛門までを内なる外部・消化管ととらえ、「口から取り込まれた食物はどの段階でヒトの内部に入ったと言えるのか」と問題を提起し、「食物に含まれる様々な栄養素は消化管を通り抜けていくあいだに、何度も分解を受けながら、やがて腸管から吸収されていく。この「吸収」という過程があって初めて食物摂取は意味を持つのである。ここでいう栄養素の吸収というプロセスこそが、まさに外部から内部への物質の移行なのである」と言っている。

第2章では生命が生命であるための最低限の条件を次のようにあげている。
1、外界から区別された単位であること
2、自己複製し、子孫を残せること
3、代謝活動を行っていること

他にもたんぱく質の合成がどのように行われるのか、恒常性の維持は生命活動の最大のミッションであること、細胞内のリサイクリングシステムなど興味深い内容がたくさん書かれている。やや難しいところもあったが、そこは無視して読み飛ばした。

私たちの体の精巧な仕組みについて驚き、その合理性に感動すら覚える。私たちの体内で起こっているさまざまな活動が、人間社会で起こっている活動となんとなくオーバーラップするのは、自然なことなのだろうか。

「生命の内と外」 永田和宏著 新潮社 2017年1月25日発行 1300円+税
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by irkutsk | 2017-04-06 15:52 | | Comments(0)

d0021786_1040246.jpg友人がビルから飛び降りようとしている現場で、霧子は黒ずくめの不思議な男と出会った。そして1週間後、合コンで偶然にも彼と会う。彼は早稲田を出て小学校の教師をしている椿林太郎だと自己紹介をする。そして二人で合コンを抜け出して、林太郎の行きつけの中野駅近くにある「むーちゃん」という居酒屋へ行く。

そこで霧子は林太郎の過去を聞く。物心ついたころから頭の中がうるさくて、うるさくて何もまともに考えられなかった。音はいろいろで、ドラム缶をたたくような音だったり、空から雨の代わりに砂が降ってきているみたいなざらざらした音だったり。でも当時はみんな同じだと思っていた。でも小学5年生の時、夜中にあまりにうるさいのでキレちゃって「バカヤロー」と叫びながら走っていた。そしてこのまま電車に飛び込んでしまおうと思って線路に横たわっていた。でもいつまでたっても電車は来ない。いつ始発が通過してもおかしくないはずなのに。いくら待っても電車が来ないので、あきらめて立ち上がると、音が消えた。それからはもう二度と音は聞こえなくなった。

林太郎とムーちゃんへ行った帰り、霧子は林太郎を自分のアパートに泊め、やがて同棲するようになった。そんなある日、林太郎は担任の生徒・啓太のお母さんが怒鳴り込んできて、午後からドタバタして大変だったという話をした。啓太は5年生だが、温かい食べ物が苦手で、林太郎は彼が温かいものを食べられるようになるよう、自分のアパートに連れてきて夕食を食べさせたり、食堂で一緒に食べたりしていた。啓太の母は夜の仕事をしていて、夕方から出かけていなかったのだ。啓太の母親は、同級生の母親からその事実を聞かされ、学校へ怒鳴り込んできたということだった。

林太郎は次の小学校に転勤して4か月後の7月、林太郎は学校を辞めてきたと霧子に言った。隣のクラスに嚙みつき癖のある徹哉という男の子がいて1年生から持ち上がりの女性教諭はその扱いに頭を抱えていた。徹哉は教室を飛び出して林太郎のクラスまでやってくる。林太郎は半月後、徹哉がどんな問題を内心に抱えているかを知るために、クラス全員と交換日記を始めてみること、彼のパニックを未然に防ぐために、教室の後ろの窓際に机といすを置いて、気持ちがぐらぐらしてきたら、その椅子に座って景色を眺めてクールダウンできるようにすることなどをすすめた。そんな特別扱いはできないとその女性教師は彼の提案を一蹴した。それから2週間後、徹哉が級友とけんかになり相手の腕に噛みついて裂傷を負わせてしまった。双方の親が呼び出され、校長は「だから最初から無理だと言ったんです。こうなった以上はよそに行ってもらう方がお互いのためだと思いますよ。他の子をじゃまするおたくのお子さんのような子は、正直なところ非常に迷惑なんですよ」と言った。

林太郎は帰ろうとする母親に声をかけ、彼の家庭教師を申し出て週に2回、徹哉の家で家庭教師をすることにした。ところがそれが校長にばれて、校長とやりあい、辞表を出したという。「大のために小を犠牲にするという間違った考え方が、今の教育をめちゃくちゃにしているのは確かなんだ」と彼は霧子に言った。

林太郎は霧子と正式に結婚した。そして林太郎は新しい仕事として学習塾みたいなものを開くという。オープンした「椿体育教室」は、体育が苦手な子、九九が覚えられない子、漢字が苦手な子、じっとしているのが不得意な子、そういう子ども達のための塾だ。

霧子は大阪へ転勤になり、二人は別居生活をすることになる。そしてある日、霧子の父が脳溢血で倒れたという連絡が入った。霧子は鹿児島へ出張していて、林太郎に連絡するがちっとも捕まらない。霧子は今夜が峠みたいだから病院に駆けつけてほしいという。だが林太郎は「うーん、教室があるしね。面談も入ってるから、僕は明日の夕方にならないとちょっと抜けられないかもしれない」と答え、霧子を怒らせる。林太郎は「お父さんは大丈夫だよ。今夜で山を越えて、少し時間はかかるかもしれないけど必ず全快するよ。あまり心配しなくたって平気だと思うよ」と言う。彼には人の死期がわかるという不思議な能力があったのだ。でもそれを言っても霧子は信じてくれないだろうし。

その秘密を霧子に話した時、彼女は「運命は自分たちの意志でいくらでも修正可能なんじゃないかしら」と反論する。だが林太郎は「僕たちは自らの寿命が尽きたときに死ぬんだ。ぼくたちに、その寿命を変える力は与えられていない。誰もが寿命を受け入れるほかないんだよ。ただね、そうだとしても、どうやって死ぬかは僕たちの力で変えられるんだ。どんな人も最後の最後まで周囲の人に愛され、惜しまれて死んでいってほしい。この世に生まれたことを呪うような死に方だけは絶対にさせてはならないんだよ」と答える。そして最後に、「死は決して終わりではないってことなんだ」と言うのだった。

人の運命と、それにまつわる人々の生き方について考えさせられる一冊でした。

白石一文は1958年福岡県生まれ。2000年に「一瞬の光」でデビュー。09年「この胸に深々と刺さる矢を抜け」で山本周五郎賞を、翌10年には「ほかならぬ人」で直木賞を受賞している。

「彼が通る不思議なコースを私も」 白石一文著 集英社 2014年1月10日発行 1600円+税
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by irkutsk | 2017-03-27 17:40 | | Comments(0)

d0021786_16381125.jpg15年前に島尾敏雄文学賞を取ったきりの自称作家の良太。だが、その後15年は鳴かず飛ばずで、今では「小説の取材」と言い訳をしながら、探偵事務所で働いている。

出版社からは漫画の原作をやらないかと勧められてはいたが、純文学作家のプライドから二の足を踏んでいたのだった。そのくせギャンブルには目がなく、少し稼ぎがあればそこにつぎ込むばかりでいつも金欠状態であり、母親の淑子や姉の千奈津に金をせびる毎日を送っていた。

そんな彼に愛想を尽かした妻の響子は離婚して久しく、月に一度、一人息子の真吾と会わせることと引き換えに養育費5万円を求めるほかは、一緒に食事することすら拒んでいた。だがそんな良多にも父親としての意地があり、真吾に会う時、養育費は用意できなくても金を都合してプレゼントは用意していた。

現実を見ようとしない良太に愛想をつかし、出て行った元妻。父親に似ることを恐れる真面目な11歳の息子。そして46歳の良太を未だ「大器晩成」とやさしく見守る母親。

台風が日本に接近しているある日、良多は月に一度の息子と会える日を持った。響子は、元夫である彼が、自分の新しい恋人のことを調査していることに呆れ、冷たい態度を崩さない。それでも天気の崩れかたを危ぶみ、親子三人、淑子のアパートで一夜を過ごすこととなった。父親を心配して調子を合わせる真吾は、眠れずに父と一緒に嵐の中を外出、公園の滑り台に籠って駄菓子を味わう。戯れに話し込む親子は、将来の夢について言葉を交わす。考え込む良多は、翌日からの自分のことを振り返ってみるのだった。翌日、晴れ渡った空のもと団地を出る親子の姿があった。

2016年5月21日に是枝裕和監督、阿部寛主演で映画が公開されている。

「海よりもまだ深く」 是枝裕和、佐野晶著 幻冬舎文庫 2016年4月30日発行 540円+税
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by irkutsk | 2017-03-26 22:00 | | Comments(0)

d0021786_23214451.jpg1680年、綱吉が思わぬことから徳川五代将軍になり、「忠孝を励まし、夫婦、兄弟、諸親類に睦まじく、召し使いの者に至るまで憐憫を加うべし。もし不忠、不孝の者あらば、重罪足るべきこと」という高札を諸国に立てさせた。そして妻・信子に「余は命の重さを、この世に取り戻す」と言い、慈愛の心がまさに「文」であり、その力によって武を制し、信の太平を導くとした。また鷹狩の鷹の餌として犬を献上させる慣わしが諸国の大名の間で行われていたことに対し、「子を捨て、老親を捨て、犬を殺す」ことはすべてつながっている。世に慈しみの心を涵養せねば、殺生は一向に亡くならないと考た。彼の治世中には赤穂浪士の討ち入りや、富士山の噴火、地震、大火と次々に困難が起こった。また市中では生類憐みの令を曲解し、人よりも犬を大事にしていると思われる。太平の世を目指した彼の治世は果たして実現できたのか。1680年にタイムスリップしたような気持ちで、当時の綱吉と彼をとりまく人たちの物語を楽しく読むことができる一冊でした。
「最悪の将軍」 朝井まかて著 集英社 2016年9月30日発行 1,600円
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by irkutsk | 2017-02-26 23:14 | | Comments(0)

d0021786_9173144.jpg筆者は昭和17年8月に仙台陸軍教育隊に入隊し、第68戦隊に転属。ハルピンへ渡る。待っていたのは初年兵教育という名の暴力で、あまりの暴力にKは発狂した。筆者も洗濯物の汚れが落ちていないと言って革スリッパで連打され、右耳の聴力を失った。このような暴力を受けても、抗議することも、訴えることもできないところが軍隊だった。

12月30日には北満・竜鎮駅からハルピン行きの列車に乗り、その後三重県の明野飛行学校へ。そこで飛行機の整備技術を学び、翌18年3月31日横須賀へ向かう。そして18年5月26日ニューギニアのウエワクに到着。7月8日本体復帰を命ぜられ、ラバウルへ。当時すでにラバウル湾の入り口は敵の潜水艦の溜まり場だったため、物資の補給がなく、明けても暮れても乾パンと缶詰の食事だった。

18年9月23日、再びウエワクに。連日の出撃で未帰還者、負傷者が多く、戦隊の操縦者は17、8名に激減。稼働数も10機そこそこであった。

昭和19年3月中旬ごろ、菅野の属していた戦隊は完全武装で山側の密林に退避して設営することになる。菅野は病気で弱っているから、完全武装の行軍は無理だからここに残れと言われる。連日B25が超低空飛行で攻撃してくるここに残ることは死ぬということだった。「丈夫なうちは食事の世話から洗濯まで下僕同然にこき使いながら、少し弱ると猫の子でも捨てるように置き去りにする。人間味のかけらもない上官の仕打ちにまた限りない憤りが込み上げてきた」と菅野は当時の心境を述べている。

元気を回復し、ウエワク東飛行場から4キロほど密林内を行った窪地に移動していた部隊に合流する。この深い密林では動物もほとんど目に触れなかったが、夜になると鳥か獣かはわからないがキャーキャーと叫ぶ声が駆け抜けていた。ここに5か月間住んでいた。

第18軍の総力を結集したアイタベ作戦も、惨めな結果に終わった。近代戦において、1機の飛行機もなく、1隻の軍艦の支援もなく、腹ペコの兵隊が三八銃を振りかざして挑んだところで勝てるわけがなかった。これは戦後になって、当時の東部ニューギニアの状況がわかってからの見解であって、当時われわれ兵隊は、これらの事情は一切わからなかった。兵隊たちは上官の命ずるまま、アイタベに豊富な物資とともに上陸しているアメリカ軍を海に追い落とし、敵さんの給与にありつくのを夢見て戦っていた。

昭和19年4月半ば、健兵は100キロ以上もあるホーランジャまで行軍することになる。日本軍はライ、サラモア、ガリからウエワクを目指して行軍中、飢えと病魔でおびただしい犠牲者を出していた。セビックの湿地帯だけでも3千人を超えていた。その地獄の行軍をまた繰り返そうとしていた。

六十八戦隊が自活地として移り住んだのはセピック平原、ウェルマン集落だった。50名近い集落民が住んでいた。飢餓から手近に捕まえられる蛇、とかげ、百足、蝉、バッタ…手当たり次第になんでも口に放り込んだ。このウェルマン集落に駐留した41名のうち、生き残れたのは11名だった。

6月27日、前線出動命令が出た。出発して2日目。マラリヤ熱に倒れ、良くなったら後を追うということになり、菅野はじめ3名を残して、部隊は出発したが、その日の夕方、「先住民の待ち伏せ攻撃で小隊は全滅した」と船舶工兵隊の一人が幽霊のようになって帰って来た。

またある所では、「これから先は先住民に目を配るのは勿論だが、同胞であっても気を許すな。特に逃亡兵の中には良からぬ者がいて、身ぐるみ剝がれた挙句、肉まで食われたという風説もあるから注意しろよ」と警告された。

ニューギニア上陸以来丸2年、1通の手紙も受け取っていないし、新聞、ラジオもなく、ミッドウェー海戦で日本海軍が大打撃を受けたことも、東京大空襲も、米軍の沖縄上陸も全然知らされていなかった。私の脳裏には緒戦の頃の真珠湾攻撃とかシンガポール占領などの華々しい戦火のみが強く記憶に残っていたという。

8月22日、敗戦を知らされ、豪軍の捕虜となり、その後病院船で送還され、久里浜国立病院に収容。柏病院に転院し、故郷の福島県郡山国立病院に転院したのは昭和21年4月20日だった。そこでもマライや熱の再発や南京虫の襲撃に悩まされたのだった。

ニューギニア派遣軍14万人余りのうち、生存者は約1万人。生存率7%と言われている。
地獄の島・ニューギニアから帰還できた筆者の壮絶な体験が書かれた貴重な本である。戦後70年以上が経過し、戦争の記憶が風化し、再び戦争できる国にしようという勢力が力を増してきている現在、過去の戦争で何が行われていたのかを知ることは大切なことだと思われる。

「7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還」 菅野茂著 MBC21 2003年5月26日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2017-02-14 19:14 | | Comments(0)