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ロシアとMacと日本語

カテゴリ:本( 350 )

d0021786_5484580.jpg舞台は埼玉県川越市。川越運送店に勤めるハルさんは、同じ店に同居している観光案内所の柚原さん(三十代後半だがスタイルもよく20代に見られる)とアルバイトの大学院生・大西君とガラス店兼工房を経営している葛城さんと4人で毎日ジョギングをしていた。

ジョギング中のある日、三日月堂という活版印刷の店に電気がついているのを見つける。三日月堂は5年くらい前に閉店し、その後店主夫婦が亡くなって空き家になっていたのである。不思議に思って覗いていると、中から人が出てきた。

弓子さんである。彼女はこの印刷所を経営していた老夫婦の孫娘で28歳である。彼女とハルさんが初めて会ったのは、ハルさんが川越運送店で働き始めた頃で、弓子さんが小学校にあがる前。細い路地をお父さんの後ろから歩いていた弓子さんは、お父さんに呼ばれて駆け出した拍子にきらきら星のついたキーホルダーを落とした。「落としたよ」と声をかけ彼女にキーホルダーを拾ってあげたのだった。お母さんにプラネタリウムで買ってもらったものだと言い、でもお母さん死んじゃったと言った。弓子ちゃんは三日月堂をやっている祖父母の家に預けられ、週末だけお父さんがやって来ていたのだった。

弓子は川越運送店のパート募集の張り紙を見て、働きたいとやってきた。面接をし、パートとして採用した。ハルさんは昔、高校を卒業したときに自分の名前の入った三日月堂のレターセットを両親からもらったことを話し、今年高校を卒業し、北海道の大学へ行く息子の卒業のお祝いに、やはり自分がもらったのと同じレターセットを息子に送りたいと思っていた。弓子さんは学生時代、祖父母の印刷所を手伝っていたので、印刷機の使い方も知っていたし、機械や活字もすべてそのまま残っているので、やってみましょうということになり、機械の掃除、点検を始め、レターセットを印刷した。

これをきっかけに、活版印刷三日月堂は再び動き出した。そして活版印刷三日月堂をめぐる物語が3つ書かれている。それぞれの物語が読者をぐいぐいと本の中へ引き込み、1日で読み終えてしまった。

「活版印刷三日月堂」 ほしおさなえ ポプラ文庫 2016年6月5日発行 680円
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by irkutsk | 2017-04-07 07:00 | | Comments(0)

d0021786_1054244.jpg「はじめに」で著者は次のように言っている。「自分という存在は、どこまでが自分なのかと考えると、少し事情は複雑になるだろう。一枚の皮膚に囲われた内部が自分である。生物学的に言うとそのように言えそうだが、実は私たちの自己の内部には他者をも棲まわせている。単に哲学的な思考の枠組みではなく、生物としての私たちの生命の内側には、他の生命が棲み着いているのである。」

「生命の誕生に際して、細胞(生命)が膜によって区画されたとき、細胞は同時に決定的な自己矛盾を抱え込むことになってしまった。膜によって外界と隔てられなければ生命としては存在できないが、いっぽうで、外界と完全に隔離されてしまえば、これまた生命としての活動を営むことはできないのである。」

「生命が生命であるためには、代謝活動が必須である。」「つまり生命は外部に対して「閉じつつ、開いて」いなければならないのである」。

また、「生命の本質として「変わりつつ、変わらない」という性質も極めて大切なものである。外の変化にやわらかく対応し、それをやり過ごしつつ、己はしっかりと維持していく」。

第一部第1章では口から肛門までを内なる外部・消化管ととらえ、「口から取り込まれた食物はどの段階でヒトの内部に入ったと言えるのか」と問題を提起し、「食物に含まれる様々な栄養素は消化管を通り抜けていくあいだに、何度も分解を受けながら、やがて腸管から吸収されていく。この「吸収」という過程があって初めて食物摂取は意味を持つのである。ここでいう栄養素の吸収というプロセスこそが、まさに外部から内部への物質の移行なのである」と言っている。

第2章では生命が生命であるための最低限の条件を次のようにあげている。
1、外界から区別された単位であること
2、自己複製し、子孫を残せること
3、代謝活動を行っていること

他にもたんぱく質の合成がどのように行われるのか、恒常性の維持は生命活動の最大のミッションであること、細胞内のリサイクリングシステムなど興味深い内容がたくさん書かれている。やや難しいところもあったが、そこは無視して読み飛ばした。

私たちの体の精巧な仕組みについて驚き、その合理性に感動すら覚える。私たちの体内で起こっているさまざまな活動が、人間社会で起こっている活動となんとなくオーバーラップするのは、自然なことなのだろうか。

「生命の内と外」 永田和宏著 新潮社 2017年1月25日発行 1300円+税
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by irkutsk | 2017-04-06 15:52 | | Comments(0)

d0021786_1040246.jpg友人がビルから飛び降りようとしている現場で、霧子は黒ずくめの不思議な男と出会った。そして1週間後、合コンで偶然にも彼と会う。彼は早稲田を出て小学校の教師をしている椿林太郎だと自己紹介をする。そして二人で合コンを抜け出して、林太郎の行きつけの中野駅近くにある「むーちゃん」という居酒屋へ行く。

そこで霧子は林太郎の過去を聞く。物心ついたころから頭の中がうるさくて、うるさくて何もまともに考えられなかった。音はいろいろで、ドラム缶をたたくような音だったり、空から雨の代わりに砂が降ってきているみたいなざらざらした音だったり。でも当時はみんな同じだと思っていた。でも小学5年生の時、夜中にあまりにうるさいのでキレちゃって「バカヤロー」と叫びながら走っていた。そしてこのまま電車に飛び込んでしまおうと思って線路に横たわっていた。でもいつまでたっても電車は来ない。いつ始発が通過してもおかしくないはずなのに。いくら待っても電車が来ないので、あきらめて立ち上がると、音が消えた。それからはもう二度と音は聞こえなくなった。

林太郎とムーちゃんへ行った帰り、霧子は林太郎を自分のアパートに泊め、やがて同棲するようになった。そんなある日、林太郎は担任の生徒・啓太のお母さんが怒鳴り込んできて、午後からドタバタして大変だったという話をした。啓太は5年生だが、温かい食べ物が苦手で、林太郎は彼が温かいものを食べられるようになるよう、自分のアパートに連れてきて夕食を食べさせたり、食堂で一緒に食べたりしていた。啓太の母は夜の仕事をしていて、夕方から出かけていなかったのだ。啓太の母親は、同級生の母親からその事実を聞かされ、学校へ怒鳴り込んできたということだった。

林太郎は次の小学校に転勤して4か月後の7月、林太郎は学校を辞めてきたと霧子に言った。隣のクラスに嚙みつき癖のある徹哉という男の子がいて1年生から持ち上がりの女性教諭はその扱いに頭を抱えていた。徹哉は教室を飛び出して林太郎のクラスまでやってくる。林太郎は半月後、徹哉がどんな問題を内心に抱えているかを知るために、クラス全員と交換日記を始めてみること、彼のパニックを未然に防ぐために、教室の後ろの窓際に机といすを置いて、気持ちがぐらぐらしてきたら、その椅子に座って景色を眺めてクールダウンできるようにすることなどをすすめた。そんな特別扱いはできないとその女性教師は彼の提案を一蹴した。それから2週間後、徹哉が級友とけんかになり相手の腕に噛みついて裂傷を負わせてしまった。双方の親が呼び出され、校長は「だから最初から無理だと言ったんです。こうなった以上はよそに行ってもらう方がお互いのためだと思いますよ。他の子をじゃまするおたくのお子さんのような子は、正直なところ非常に迷惑なんですよ」と言った。

林太郎は帰ろうとする母親に声をかけ、彼の家庭教師を申し出て週に2回、徹哉の家で家庭教師をすることにした。ところがそれが校長にばれて、校長とやりあい、辞表を出したという。「大のために小を犠牲にするという間違った考え方が、今の教育をめちゃくちゃにしているのは確かなんだ」と彼は霧子に言った。

林太郎は霧子と正式に結婚した。そして林太郎は新しい仕事として学習塾みたいなものを開くという。オープンした「椿体育教室」は、体育が苦手な子、九九が覚えられない子、漢字が苦手な子、じっとしているのが不得意な子、そういう子ども達のための塾だ。

霧子は大阪へ転勤になり、二人は別居生活をすることになる。そしてある日、霧子の父が脳溢血で倒れたという連絡が入った。霧子は鹿児島へ出張していて、林太郎に連絡するがちっとも捕まらない。霧子は今夜が峠みたいだから病院に駆けつけてほしいという。だが林太郎は「うーん、教室があるしね。面談も入ってるから、僕は明日の夕方にならないとちょっと抜けられないかもしれない」と答え、霧子を怒らせる。林太郎は「お父さんは大丈夫だよ。今夜で山を越えて、少し時間はかかるかもしれないけど必ず全快するよ。あまり心配しなくたって平気だと思うよ」と言う。彼には人の死期がわかるという不思議な能力があったのだ。でもそれを言っても霧子は信じてくれないだろうし。

その秘密を霧子に話した時、彼女は「運命は自分たちの意志でいくらでも修正可能なんじゃないかしら」と反論する。だが林太郎は「僕たちは自らの寿命が尽きたときに死ぬんだ。ぼくたちに、その寿命を変える力は与えられていない。誰もが寿命を受け入れるほかないんだよ。ただね、そうだとしても、どうやって死ぬかは僕たちの力で変えられるんだ。どんな人も最後の最後まで周囲の人に愛され、惜しまれて死んでいってほしい。この世に生まれたことを呪うような死に方だけは絶対にさせてはならないんだよ」と答える。そして最後に、「死は決して終わりではないってことなんだ」と言うのだった。

人の運命と、それにまつわる人々の生き方について考えさせられる一冊でした。

白石一文は1958年福岡県生まれ。2000年に「一瞬の光」でデビュー。09年「この胸に深々と刺さる矢を抜け」で山本周五郎賞を、翌10年には「ほかならぬ人」で直木賞を受賞している。

「彼が通る不思議なコースを私も」 白石一文著 集英社 2014年1月10日発行 1600円+税
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by irkutsk | 2017-03-27 17:40 | | Comments(0)

d0021786_16381125.jpg15年前に島尾敏雄文学賞を取ったきりの自称作家の良太。だが、その後15年は鳴かず飛ばずで、今では「小説の取材」と言い訳をしながら、探偵事務所で働いている。

出版社からは漫画の原作をやらないかと勧められてはいたが、純文学作家のプライドから二の足を踏んでいたのだった。そのくせギャンブルには目がなく、少し稼ぎがあればそこにつぎ込むばかりでいつも金欠状態であり、母親の淑子や姉の千奈津に金をせびる毎日を送っていた。

そんな彼に愛想を尽かした妻の響子は離婚して久しく、月に一度、一人息子の真吾と会わせることと引き換えに養育費5万円を求めるほかは、一緒に食事することすら拒んでいた。だがそんな良多にも父親としての意地があり、真吾に会う時、養育費は用意できなくても金を都合してプレゼントは用意していた。

現実を見ようとしない良太に愛想をつかし、出て行った元妻。父親に似ることを恐れる真面目な11歳の息子。そして46歳の良太を未だ「大器晩成」とやさしく見守る母親。

台風が日本に接近しているある日、良多は月に一度の息子と会える日を持った。響子は、元夫である彼が、自分の新しい恋人のことを調査していることに呆れ、冷たい態度を崩さない。それでも天気の崩れかたを危ぶみ、親子三人、淑子のアパートで一夜を過ごすこととなった。父親を心配して調子を合わせる真吾は、眠れずに父と一緒に嵐の中を外出、公園の滑り台に籠って駄菓子を味わう。戯れに話し込む親子は、将来の夢について言葉を交わす。考え込む良多は、翌日からの自分のことを振り返ってみるのだった。翌日、晴れ渡った空のもと団地を出る親子の姿があった。

2016年5月21日に是枝裕和監督、阿部寛主演で映画が公開されている。

「海よりもまだ深く」 是枝裕和、佐野晶著 幻冬舎文庫 2016年4月30日発行 540円+税
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by irkutsk | 2017-03-26 22:00 | | Comments(0)

d0021786_23214451.jpg1680年、綱吉が思わぬことから徳川五代将軍になり、「忠孝を励まし、夫婦、兄弟、諸親類に睦まじく、召し使いの者に至るまで憐憫を加うべし。もし不忠、不孝の者あらば、重罪足るべきこと」という高札を諸国に立てさせた。そして妻・信子に「余は命の重さを、この世に取り戻す」と言い、慈愛の心がまさに「文」であり、その力によって武を制し、信の太平を導くとした。また鷹狩の鷹の餌として犬を献上させる慣わしが諸国の大名の間で行われていたことに対し、「子を捨て、老親を捨て、犬を殺す」ことはすべてつながっている。世に慈しみの心を涵養せねば、殺生は一向に亡くならないと考た。彼の治世中には赤穂浪士の討ち入りや、富士山の噴火、地震、大火と次々に困難が起こった。また市中では生類憐みの令を曲解し、人よりも犬を大事にしていると思われる。太平の世を目指した彼の治世は果たして実現できたのか。1680年にタイムスリップしたような気持ちで、当時の綱吉と彼をとりまく人たちの物語を楽しく読むことができる一冊でした。
「最悪の将軍」 朝井まかて著 集英社 2016年9月30日発行 1,600円
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by irkutsk | 2017-02-26 23:14 | | Comments(0)

d0021786_9173144.jpg筆者は昭和17年8月に仙台陸軍教育隊に入隊し、第68戦隊に転属。ハルピンへ渡る。待っていたのは初年兵教育という名の暴力で、あまりの暴力にKは発狂した。筆者も洗濯物の汚れが落ちていないと言って革スリッパで連打され、右耳の聴力を失った。このような暴力を受けても、抗議することも、訴えることもできないところが軍隊だった。

12月30日には北満・竜鎮駅からハルピン行きの列車に乗り、その後三重県の明野飛行学校へ。そこで飛行機の整備技術を学び、翌18年3月31日横須賀へ向かう。そして18年5月26日ニューギニアのウエワクに到着。7月8日本体復帰を命ぜられ、ラバウルへ。当時すでにラバウル湾の入り口は敵の潜水艦の溜まり場だったため、物資の補給がなく、明けても暮れても乾パンと缶詰の食事だった。

18年9月23日、再びウエワクに。連日の出撃で未帰還者、負傷者が多く、戦隊の操縦者は17、8名に激減。稼働数も10機そこそこであった。

昭和19年3月中旬ごろ、菅野の属していた戦隊は完全武装で山側の密林に退避して設営することになる。菅野は病気で弱っているから、完全武装の行軍は無理だからここに残れと言われる。連日B25が超低空飛行で攻撃してくるここに残ることは死ぬということだった。「丈夫なうちは食事の世話から洗濯まで下僕同然にこき使いながら、少し弱ると猫の子でも捨てるように置き去りにする。人間味のかけらもない上官の仕打ちにまた限りない憤りが込み上げてきた」と菅野は当時の心境を述べている。

元気を回復し、ウエワク東飛行場から4キロほど密林内を行った窪地に移動していた部隊に合流する。この深い密林では動物もほとんど目に触れなかったが、夜になると鳥か獣かはわからないがキャーキャーと叫ぶ声が駆け抜けていた。ここに5か月間住んでいた。

第18軍の総力を結集したアイタベ作戦も、惨めな結果に終わった。近代戦において、1機の飛行機もなく、1隻の軍艦の支援もなく、腹ペコの兵隊が三八銃を振りかざして挑んだところで勝てるわけがなかった。これは戦後になって、当時の東部ニューギニアの状況がわかってからの見解であって、当時われわれ兵隊は、これらの事情は一切わからなかった。兵隊たちは上官の命ずるまま、アイタベに豊富な物資とともに上陸しているアメリカ軍を海に追い落とし、敵さんの給与にありつくのを夢見て戦っていた。

昭和19年4月半ば、健兵は100キロ以上もあるホーランジャまで行軍することになる。日本軍はライ、サラモア、ガリからウエワクを目指して行軍中、飢えと病魔でおびただしい犠牲者を出していた。セビックの湿地帯だけでも3千人を超えていた。その地獄の行軍をまた繰り返そうとしていた。

六十八戦隊が自活地として移り住んだのはセピック平原、ウェルマン集落だった。50名近い集落民が住んでいた。飢餓から手近に捕まえられる蛇、とかげ、百足、蝉、バッタ…手当たり次第になんでも口に放り込んだ。このウェルマン集落に駐留した41名のうち、生き残れたのは11名だった。

6月27日、前線出動命令が出た。出発して2日目。マラリヤ熱に倒れ、良くなったら後を追うということになり、菅野はじめ3名を残して、部隊は出発したが、その日の夕方、「先住民の待ち伏せ攻撃で小隊は全滅した」と船舶工兵隊の一人が幽霊のようになって帰って来た。

またある所では、「これから先は先住民に目を配るのは勿論だが、同胞であっても気を許すな。特に逃亡兵の中には良からぬ者がいて、身ぐるみ剝がれた挙句、肉まで食われたという風説もあるから注意しろよ」と警告された。

ニューギニア上陸以来丸2年、1通の手紙も受け取っていないし、新聞、ラジオもなく、ミッドウェー海戦で日本海軍が大打撃を受けたことも、東京大空襲も、米軍の沖縄上陸も全然知らされていなかった。私の脳裏には緒戦の頃の真珠湾攻撃とかシンガポール占領などの華々しい戦火のみが強く記憶に残っていたという。

8月22日、敗戦を知らされ、豪軍の捕虜となり、その後病院船で送還され、久里浜国立病院に収容。柏病院に転院し、故郷の福島県郡山国立病院に転院したのは昭和21年4月20日だった。そこでもマライや熱の再発や南京虫の襲撃に悩まされたのだった。

ニューギニア派遣軍14万人余りのうち、生存者は約1万人。生存率7%と言われている。
地獄の島・ニューギニアから帰還できた筆者の壮絶な体験が書かれた貴重な本である。戦後70年以上が経過し、戦争の記憶が風化し、再び戦争できる国にしようという勢力が力を増してきている現在、過去の戦争で何が行われていたのかを知ることは大切なことだと思われる。

「7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還」 菅野茂著 MBC21 2003年5月26日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2017-02-14 19:14 | | Comments(0)

d0021786_22504512.jpg二日間水しか飲んでいない二人の男は包丁を持って、パン屋に出かけた。もう午後も遅かったのでパン屋の店内には一人しか客はいなかった。だらしのない買物袋をさげたいかにも気の利かなさそうなオバサンだ。オバサンは気の遠くなるほどの時間をかけ、揚げパンとメロンパンをトレイに載せた。しかしそれをすぐに買うというわけではない。彼女はメロンパンを元の棚に戻し、少し考えてからクロワッサンを二つそっとトレイに載せた。そしてしばらくして今度は揚げパンが棚に戻された。オバサンはクロワッサンを2個買って店を出て行った。

僕は主人に打ち明けた。
「とても腹が減っているんです」「おまけに一文なしなんです」
「そんなに腹が減っているんならパンを食べればいい」
「でも金がないんです」
「金はいらないから好きなだけ食べりゃいい」
「いいですか、我々は悪に向かって走っているんです」
「だから他人の恵みを受けるわけにはいかない」
「なるほど。そういうことなら、こうしようじゃないか。君たちは好きにパンを食べていい。そのかわりワシは君たちを呪ってやる。それでもかまわんか」
「俺は呪われたくない」と相棒
「でも何かしら交換が必要なんだ」と僕
「どうだろう。君たちはワグナーが好きか?もしワグナーの音楽にしっかりと耳を傾けてくれたら、パンを好きなだけ食べさせてあげよう」
一時間後、我々は互いに満足して別れた。

「再びパン屋を襲う」
妻と昔のパン屋襲撃のことを話す。
「我々は腹いっぱいパンを食べることができた。にもかかわらず、そこに何か重大な間違いが存在していると我々は感じたんだ。そしてその誤謬は原理の知れないままに、我々の生活にまとわりつくようになった。
妻はもう一度パン屋を襲うことを提案し、二人は深夜の町へ車を走らせる。

「パン屋を襲う」 村上春樹著 新潮社 2013年2月25日発行 1700円+税
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by irkutsk | 2017-02-10 16:41 | | Comments(0)

d0021786_8585480.jpg昭和20年1月末から11月初めまで、欅村・月舟寺には、鷹杜学園初等部の学童たちが疎開して来ていた。鷹杜学園は東京西郊に校舎を持ち、主に中流家庭の子弟を預かる私立校として、一部に名を知られている。1月に月舟寺に来たのは、「第二次疎開組」の6年生7名、5年生16名、4年生11名、合わせて34名である。引率教員は、五代節雄、粕谷欣吉、寮母は藤代涼子であった。

欅村は東京から50キロしか離れておらず、「面会が容易にできる所にして欲しい」という親の要求を受け入れて決められた。

この小説の主人公は5年生の氷川泰輔である。そしてもう一人の主人公は引率教員の五代節雄である。子どもの視点からと、大人の視点から疎開生活と、その中での子どもと教師の心の動きがリアルに描かれている。

そして昭和42年冬、五代先生が亡くなり、疎開当初から一つの布団で一緒に寝た三池宏嗣から来てほしいと言われて、先生の通夜に行く。そして氷川は、そこで五代先生が書き残した「欅村月舟寺疎開日記その1~その6」を見せてもらい、それを借りていって読んだ。

お寺の本堂で一つの布団に二人ずつ、体を寄せ合って寝る小学生たち。そのうちシラミがわき、子どもたちはシラミに悩まされる。

3月10日の東京大空襲の時には欅村からも空が赤くなっているのが見え、子どもたちは自分の家が燃えていないだろうか、母や父は大丈夫だろうかと不安に駆られる。

 3月26日には7人の6年生が中等部進学のため月舟寺を去ることになっていた。その前日を面会日とし、6年生の父兄は翌日生徒とともに帰っていった。氷川は母がお菓子をもって面会に来てくれると思っていたが、やって来たのは父で、しかも期待していたお菓子は持ってこなかった。

7月になって、五代の教え子で高等学校の生徒の草村保治が訪ねてきた。彼は工場に動員されていたが、胸に影が出て、休みを取り郷里へ帰るところだった。彼は小学生たちに「初めは、皆、動員に行くのを喜んだよ。教練なんかよりいいと思ったし、何よりも食事の特配があるからね。それが今では、俺みたいに、体を壊した奴が羨ましがられる始末になってる。勉強だけしていればいい生活がどんなに楽なものか、思い知らされたっていうわけさ。」と語った。

7月27日に教員の粕谷に召集令状が来て、8月3日までに宮城県の部隊に出頭するようにとのことで、残された五代と藤代二人で子供たちの面倒を見ることになった。

同じ欅村の信行寺に疎開してきている小学生が逃げ出したという話がまたたくまに月舟寺の子どもたちの間に広がった。逃げ出した子どもは駅の近くまで行ったところで巡査に捉った。その話を聞いて、氷川も逃げ出して、東京の両親のもとへ帰りたいと思うようになり、三ツ池と二人で川に沿って歩いていけば東京へ行けると思って夕方から歩き始めるが、川沿いの道はやがて林の中に入っていき、真っ暗闇の中、恐怖が増し、戻ることにした。

戦争は8月15日に終わったが、東京の混乱は、容易に学童の帰郷を許さず、戦争中よりも深刻になった食糧難を忍んで暮らす戦後の日々は長かった。鷹杜学園の生徒全員が欅村を引き上げたのは11月7日だった。

戦争を知らない世代にも是非読んでほしい本である。当時の食べる物がない時代、精神論ばかりを唱える大人たち。戦況がどんどん悪化していても、本土決戦で挽回できると信じさせられていた時代。そんなウソと精神論で国民を塗炭の苦しみに陥れる国家を二度と作らせないことが必要だ。

「少年たちの戦場」 高井有一著 文藝春秋 1968年5月1日発行 490円
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by irkutsk | 2017-02-07 08:59 | | Comments(0)

d0021786_20431216.jpg井上ひさしの家族のことを三女・井上麻矢が書いている。東京郊外の市川市に家を建てた井上家は父と母、母の両親、三姉妹、そして犬のドン松五郎という家族だった。

小さい頃の父と母はいつも戦っているように見えた。父と母が喧嘩をしているという意味ではなく、真面目に彼らは考えるのだ。決して「まあ適当なところで」とか「どうだっていいじゃない」などとは言わない。

子どもの頃のエピソードで印象に残る話があった。
大晦日のよる、父がやっと書き終えた原稿を担当者の家に届けに行った。母があーちゃん(次女)をおんぶし、みーちゃん(長女)の手を引いて。担当者の家の玄関で2時間待たされ、おぶっていたあーちゃんを玄関に降ろしたら、担当者の奥さんに「汚いから子供を下に降ろすな」と怒られた。それから母は、家に遊びに来た人たちが寂しい思いをしないように、徹底的にサービスをしていた。仕事関係の人ばかりではなく、出版社の送迎の車の運転手さん、迷い込んだ犬にまで、井上家を訪れた人には気持ちよく帰ってもらおうというのが母のポリシーだった。

やがて井上家はひさしがオーストラリアの大学に呼ばれ、家族そろってメルボルンへ行くことになった。ところが、母はキャンベラの生活に限界を感じ、父とのけんかもだいぶ頻繁になっていった。そして父とみーちゃん(長女)を残し、母とあーちゃんと私は日本へ帰ることになった。

帰国後、ほんの何か月かいなくなっただけなのに郁ちゃんを除いては話しかけてくれる子はいなかった。そのため神経性胃炎になった。

高校はあーちゃんと同じ文化学園に入ったが、2年生から授業をさぼって一日中映画を見る日が続いていた。そしてフランスの映画学校に入りたいと思うようになり、日仏学園でフランス語を勉強した。18歳の3月、フランスへ出発。父の大学の後輩の家に泊めてもらい、その後パリ郊外のデュピュィ家にホームステイする。しかし日本では母に恋人ができ、父も他の人を好きになり、二人は離婚することになった。お金が送られてこず、帰国を決意。帰国したうちには両親の姿はなく、市川の家は閑散としていた。

最後に「あとがき」で筆者は次のように書いています。
「偏差値教育真っ只中の世代であったにもかかわらず、私と姉たちに素晴らしい映画と本とそれを楽しむ時間を存分に与えてくれた父と母に心から感謝します。一見何の役にも立ちそうにないそんな時間が、今の生活で私を助けてくれます。」
「そしてまた、若かりし頃の父と母が、浅草の路地裏や銀座の交差点に幻のように現れて、『人生は一度きり、自分という作品を作っているつもりで生きていきなさい』と精一杯励ましてくれます。」

「激突家族」 井上麻矢著 中央公論社 1998年5月30日 1400円+税
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by irkutsk | 2017-01-28 11:41 | | Comments(0)

d0021786_148191.jpg1984年清美。ホテルで働く清美は宴会で客に触られるのも仕事だと言われ、つらい日々を送っていた。手取り7万円の給料のうち3万円を食費として家に入れ、1万円は車のローン、もう1万円はガソリン代と保険料だ。制服のクリーニング代、美容室、化粧品代と財布の中はいつも淋しい。

道立湿原高校では音楽も運動もやらない生徒の行き場はなかった。そんな生徒たちのたまり場が図書部だった。その図書部に順子、清美、桃子、美菜恵、直子の5人がいた。高校3年の夏、国語教師の谷川が好きな順子に清美は「雨の日、ずぶ濡れで訪ねて行き、『ここしか来るところがなかったんです』と言ったらどうかという案を出し、順子はそれをやってしまった。しかし、谷川は職員住宅の中には入れてくれず、この騒ぎで谷川は教科担任を外され、順子も1か月近く学校へ出てこられなかった。そして卒業後、一度二人は会ったが、谷川は「もう許してください」と土下座して謝ったという。

順子は札幌の和菓子屋に就職した。そして、しばらくして清美に「これから東京に行くの。子どもができちゃって。仕方ないの。向こうは奥さんがいるから。和菓子屋の職人さんなの。毎日小豆を練っている四十過ぎのおっさん。逃げたいって泣くの。だからもう、ここにはいられないんだ。」と電話をかけてきた。

1990年、桃子はカーフェリー「シーラブ号」の乗務員として働いていた。そして同じカーフェリーの乗務員・北村という妻子持ちの男と付き合っていた。順子から便りが届けられるたびに住所が変わっていた。東京、九州、大阪、名古屋、そして今年東京から来た年賀所には「わたし今、すごくしあわせ。東京に来ることがあったら連絡してください」と書かれていた。桃子は7月の終わり、仕事のついでに順子を訪ねることにした。順子の言う「しあわせ」がどんなものか見たかった。渋谷で待ち合わせた順子は「せっかくだからうちに遊びに来てよ」と電車を3つ乗り継ぎ、さらに歩いて20分の「宝食堂」というラーメン屋に連れてきた。あきらという子どもがいた。

1993年弥生。札幌の和菓子屋「幸福堂」の女主人。腕のいい和菓子塞人と結婚したが、釧路から父親の古い友人の紹介でやって来た順子と二人で居なくなった。夫が行方不明となり、裁判所へ失踪宣告の申し立てを行い審判が下り、あとは市役所に提出するだけとなった。提出期限が数日後に迫ったある日、順子を紹介した父の古い友人から二人の住所が割ったと言ってきた。弥生は離婚届と失踪届をもって二人の元を訪れ、夫の恭一郎にどちらを選ぶか選んでくれというと、彼は失踪届を選んだ。

2000年美菜恵。高校時代、美菜恵も国語教師・谷川が好きだったが、順子のこともあり、言い出せなかった。そして彼女は教師になり湿原高校へ国語教師として戻って来た。谷川はまだ独身だった。美菜恵は谷川と結婚することになったが、順子と谷川のことが引っ掛かっていた。高校卒業後、訪ねてきた順子に谷川は「もう許してください」と土下座して謝ったという。谷川が順子の前で土下座したその教職員住宅で新生活を始めることに違和感を感じていたのだった。

2005年静江。順子の母。彼女は中学を卒業して公務員保養移設の賄い婦になったが、十代で順子を生み、同じ男と結婚したり別れたりを二度した後は、三年、五年と一緒に暮らす相手が変わった。60歳になる今スーパーのレジ係から惣菜部へ配置換えされた。朝早くから冷たい水仕事の惣菜部へ配置転換されたらみんな1年以内に辞めるという辛い職場である。一人ぼっちになり、このまま死んでいくのかと不安に襲われ、順子に電話をかけ、会いに行くことに。順子は保険の外交員をやり、あきらは国立大学の工学部に通っていた。

2009年直子。順子からのクリスマスカードに「12月半ば過ぎに検査入院する」と書かれていた。直子は1月の終わりに順子を訪ねるが、彼女のやせ方は尋常ではなく、皮膚や目には黄疸が出ていた。看護師という職業柄、直子は彼女の死期が近いことを知った。順子は「母が来てくれることになった。春からは自分があきらの目になって、世界を見ることができるのだ」と笑う。「死ぬことを楽しみにしちゃいけないんだろうけど、なんだかやっぱり楽しみなんだよね」。あきらはいずれ角膜移植の必要があったのだ。「順子、幸せなんだね」と聞く直子に、「もちろん」と答える順子だった。

「幸せとは何なのか?」。お金が無くても幸せになることはできるということを順子の生きざまを通して伝えている一冊でした。

「蛇行する月」 桜木柴乃著 双葉社 2013年10月20日 1300円+税
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by irkutsk | 2017-01-25 14:06 | | Comments(0)