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ロシアとMacと日本語

 これから天気が悪くなると言う名古屋を脱出して台湾へ。出発の日の10月4日は朝から曇り空。午後からぱらぱらと雨が降ってきた。自転車で千種駅まで行くつもりだったが、雨が降ってきたので歩いて千種駅まで。20分以上も荷物を持って歩いてちょっと汗ばむくらい。中央線で金山まで行き、名鉄で中部国際空港へ。15時15分までにキャセイ航空のチェックインを済ませてくださいという旅行社の指示だったので2時40分に着く電車に乗った。

 チェックインを済ませ、展望デッキで飛行機を見ていたら、数人のおばあさんが離陸した飛行機に向かって手を振っている。誰か知り合いの人の見送りにきたのかなと思っていたら、どの飛行機にも手を振っている。空港見学ツアーに来たおばあさんたちだった。
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 出発まで時間があるので展望デッキそばの喫茶店に入って、飛行機を見ながらコーヒーを飲んで時間をつぶした。16時35分から飛行機への案内が始まるというので4時過ぎに出国審査を終えて搭乗待合室へ。飛行機はエアバス330。窓際に2座席ずつ、真ん中に5座席ある大きな飛行機だった。座席と座席の間隔はちょっと狭め。おまけに前の人の背もたれに液晶画面があり、ちょっとわずらわしい。特に前の人が座席を倒したりすると液晶画面が眼前に迫ってくる。

 定刻17時15分に離陸し、紀伊半島の南、四国沖、九州宮崎県上空を通って台北へ。飲み物、機内食が出てしばらくするともう台北に到着。私たちの座席は後ろの方だったので、前の中国人についていくと入国審査のカウンターにでた。中国人と外国人が分けられていて、外国人の窓口は3つ開いていたがかなり長い行列ができていた。でも20分くらいで通過。預けた荷物はないのですぐに外へ出ると台湾の旅行社の人が迎えにきていた。日本語が流暢なおばさんで、私たち二人のほかに阪急旅行社のツアー客3人を迎えにきていて、ワゴン車で台北のホテルまで送ってくれた。台北市内までは約40分。

 私たち二人が泊まるホテル(阪急旅行社の3人は別のホテル)に着いたのは現地時間9時だった。ホテルはMRT西門駅近くのビジネスホテル風の國光大飯店。部屋は5階でツインの部屋だが、大きなセミダブルサイズのベッドが二つあり、ベッドに関しては満足。テレビ、冷蔵庫、ドライヤーはあるが、ベッドサイドに時計がない。枕元に腕時計を置いておいて電気を点けてみるしかない。風呂はバスタブが付いていたが、仕切のカーテンがないので床が水浸しになってしまう。これは何とかしてほしい。トイレも同じ部屋にあるんだから。

トイレには紙を流さないで、そばに置いてあるくずかごに入れるようにとの注意書きが貼ってあった。日本人にとってはちょっと抵抗があるけど、つまりやすいので紙は流さないという国は結構多い。

 荷物を部屋に置いて、ホテル周辺の散策へ。このあたりは東京の原宿みたいなところで若者がたくさん集まるところだそうだ。路上ではいろいろな食べ物が売られていた。最初に中の餡がカラフルな小さなくず餅のようなものを9個30元(110円)で買って食べ、次に果物を売っているおばあさんからオレンジ色のメロンを買い、別のお姉さんの店で何かわからない青い果物を買った。
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 4切れで100元。ビニール袋に入れて包丁の背で叩いて更に小さくしてくれて、砂糖をかけるかと聞くので、かけてもらう。味はあまりない。後で台湾に住む友だちに聞いたところ、グァヴァだそうだ。次に厚揚げのようなものを焼いている店があったのでそばに行ってみると、臭豆腐と書かれていた。これがかの有名な臭豆腐かと一つ買って食べてみる。猛烈な臭いと言われていたが、そんなに臭くない。結構おいしかった。しばらくうろついて同じ所に戻ってくると、屋台の店が一斉に蜘蛛の子を散らすように片づけて散っていった。警察の取り締まりが来たようだ。ホテルの近くのコンビニで2リットル入りのミネラルウォーターと台湾ビール(350ml)を買った。35元と32元。

 ホテルは小さなホテルで、1階にはフロントと喫茶コーナーのようなものがあるだけ。朝食はこの喫茶コーナーで食べるという。フロントの人は日本語がわかるので不自由しない。5階にエレベーターで上がると廊下に小さな絵がいくつも掛けてある。本物ではなく複製であるが、このホテルのオーナーの趣味なのか。私たちの511号室はなんと窓がない。朝になっても明るくならないし、暑いのか、寒いのか、晴れているのか、雨が降っているのか1階に降りて外へ出てみるまでわからないというのはちょっと不便。たまたま私たちの部屋が真ん中にあったからで、窓のある部屋もあるようだ。
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# by irkutsk | 2006-10-08 16:36 | 旅行 | Comments(1)

9月16日に来た学部長さんのメールによると、彼女は17日から1ヶ月夏休みで子供たちのところへ行ってくるそうです。そして10月16日にかえって来るそうですが、そのころにはあなたもジェレズノゴルスクへ来られるのではないかとのこと。

招待状や市へ入るための許可証を作っている関係機関に作成を急ぐようにと電話してくれるとのこと。本当にそれで早くなるのかな。それだったら最初から急ぎで作ってほしいとお願いしていたら早くなったのかな?ロシアのことはわかりません。日本の常識が通用しない国ということはよくわかりました。

やはりこの時期に日本語教師としてクラスノヤルスク大学へ日本語教師として行かれる人がいるんですが、彼女のところにはもう招待状が届いて、ビザの手続きや航空券も頼み、10月2日には出発されるそうです。彼女に招待状がどういう手段で送られてきたか聞いたところ、国際宅急便で9月5日にロシアを発送し、8日に日本に着き、自宅へ配達されたのは10日だったそうです。便利になったものだと驚きました。

さて、私のほうはまだまだ「待ち」の状態で、毎日日本語の教案作りに励んでいます。ひらがな、カタカナを教えるのに約3週間、それからやっと「みんなの日本語」第1課に入る予定です。

学生たちは私が到着するまでどうしているのかとメールで問い合わせたところ、週4日、他の先生と漢字を勉強しているということでした。いきなり漢字をどうやって勉強しているのか気になってもう少し詳しい様子を知らせてほしいとメールでお願いしました。
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# by irkutsk | 2006-09-20 10:06 | 日本語 | Comments(0)

9月2日の土曜日の朝、また向こうの大学の学部長さんからメールが来ていました。
そのメールを読んでびっくり!今月末にはジェレズノゴルスクへ行けると思って準備していたのに、そのメールによると招待状ができあがるのが9月22日から29日の間で、閉鎖都市ジェレズノゴルスク市へ入るための許可証ができあがるのが10月15日だそうだ。それからエアメールで送ってきて、ビザを申請し、航空券を取ってと考えると早くても出発は10月の末、下手をすると11月にずれ込んでしまうかもしれない。
閉鎖都市への許可証が1カ月半もかかるなんて、日本では考えられない遅さです。

日本語科の学生達は2ヶ月間日本語の授業を受けられなくて、どうしているんだろう?
私としては教案作りにたっぷり時間が取れて良いのだけど。

あと少しで出発できると思っていたら、また1カ月延びてしまい拍子抜けしてしまいました。
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# by irkutsk | 2006-09-04 17:36 | ロシア | Comments(0)

 ジェレズノゴルスクで働くことが決まって、いろいろとインターネットで調べたり、赴任先のクラスノヤルスク国立教育大学ジェレズノゴルスク分校の外国語学部長さんとメールのやりとりをしていくうちに、町の様子や私の仕事の内容もだんだんとはっきりしてきました。
 
 まずジェレズノゴルスクという町について
 この町は1954年に作られた町で、誕生からわずか半世紀しかたっていません。人口は2006年現在で102,200人です。クラスノヤルスクという人口90万人の大きな町から北に64キロの所にあり、クラスノヤルスクへは30分毎にバスが出ています。1時間半でクラスノヤルスクに行けます。ジェレズノゴルスクの町にもオペラ劇場と人形劇場、映画館、博物館などがあるそうです。
 町は北緯56度15分、東経93度32分の位置にあります。モスクワやコペンハーゲン、イギリスのエジンバラなどと同じ緯度です。
 日本との時差は夏時間の今はマイナス1時間、冬になるとマイナス2時間です。今日の日の出は6時44分、日没は20時55分です。そしてもう秋だといってますが、日本の初冬並の寒さです。今日の最低気温は2〜4度、最高気温は12〜14度です。
 
 私の仕事について
 何回かメールのやりとりをして、わたしの仕事の概要がわかりました。今年から日本語のコースができたので外国語学部の学生(1年生だけです)に週5コマ教えます。1コマの時間は90分です。他に選択科目で日本語を勉強したいという学生6名に週2コマ教えます。さらに高校生(ロシアでは10年生、11年生)に週2コマ(こちらは1コマ45分です)、小学5年生に週2コマ(やはり1コマ45分)です。
 みんな日本語は初めてなので、「あいうえお」から始めます。いままで文法や会話はボランティアで教えてきたのですが、0から教えるというのは初めてなので、いろんな本を買って勉強中です。年間の授業計画や当面の教案なども作り始めましたが、どうなることか。
 私がジェレズノゴルスクで住むことになるのは、大学の職員が何人か住んでいるアパートです。もちろん個室でベッドや冷蔵庫もあるということです。大学からは車で15分の所にあり、他の職員と一緒に来てくださいとのことでした。相乗りで行くのか、送迎のマイクロバスがあるのか?
 
ジェレズノゴルスクの町の写真が載っているホームページを紹介します。
http://www.fkgpu.ru/galery/photo.php?num=1
私の勤める予定のクラスノヤルスク国立教育大学ジェレズノゴルスク分校のホームページはこちらです。ロシア語ばかりですが写真も載っています。
http://www.fkgpu.ru/index.php
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# by irkutsk | 2006-08-28 18:21 | ロシア | Comments(1)

 昨日クラスノヤルスク国立教育大学外国語学部の学部長へメールの返事をロシア語で書き、その中でいくつかの質問をしていたら、今朝もう返事が来ていた。あまりの早さにびっくり!私が書いて送ったロシア語メールはちゃんと読めたということで、返事はロシア語できた。質問の回答は次のとおりで、だんだんと向こうでの仕事の内容がはっきりしてきた。
1,外国語学部で日本語を学ぶ学生は1年生だけで、その他にも選択科目で日本語を取りたいという学生もいるので、授業は毎日あります(希望があれば休息日を設けても良い)。もし、仕事量が物足りなければ、優れた素質の子ども達を集めた全寮制の学校で日本語を教えることもできます。
2,住居は設備のついたアパートを無料で提供します。そこで自炊しても良いし、食堂もあるのでそれを利用しても良いです。
3,大学には診療所があり、時間中は内科医が常駐しています。医療費は無料です。保険についてあなたが必要なら、どうしたらよいか明らかにします。

 同じく今朝、クラスノヤルスク国立大学のガリャーチェヴァさんからも日本語のメールが来ていた。内容はほぼ同じだが、彼女の方が少し詳しい部分もあった。彼女は日本語ができるので窓口になっていろいろと連絡をしてくれている。彼女のメールによれば、私の担当コマ数は9コマで、教育大学で7コマ、高校で1コマ、小学校で1コマだそうだ。高校生は1年ぐらい日本語を勉強した生徒で、小学生(5年生)は0からだそうだ。大学も含め今年は入門から初級を教えることになりそうだ。しかし、驚いたことに教科書はないということで、持ってきてくれれば幸せですとのこと。給料は300ドル。住居は冷蔵庫、ベッドがあり無料だとのこと。インターネットは大学でできるとのことなので、授業のための素材集めやこのブログの更新もできそうです。
霧に包まれていたロシアでの仕事ですが、少しずつ霧が晴れてきました。
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# by irkutsk | 2006-08-22 09:14 | ロシア | Comments(0)

 私が今年の9月から日本語教師として赴任するクラスノヤルスク国立教育大学がある場所がジェレズノゴルスクです。シベリアの真ん中、クラスノヤルスクという町から更に北へ30キロほど行ったところにある町です。
 バイカル湖の近くにあるイルクーツクからはシベリア鉄道に乗って西へ18時間の所にあります。私はウラジオストクから飛行機で行く予定ですが、5時間もかかります。
 毎日クラスノヤルスクの天気予報を見ていると、8月というのに最低気温は5ー6℃という日もあります。日本の冬ですよね。最高気温も20℃前後。雨が降った日は15℃くらいまでしか上がりません。9月に行くときはコート、手袋が必要ですね。
 今は日の出が6時半、日没は9時過ぎですが、だんだんと短くなって冬至の頃には昼の長さが6時間程度になるそうです。
 いざジェレズノゴルスクに行くことが決まって、インターネットでその町のことを調べてみると大変な町のようです。ソ連崩壊までは秘密閉鎖都市で、地図にも載っていなかったところですが、今はジェレズノゴルスクという地名がついています。閉鎖都市ということは変わらないようですが。従って町に入るには許可証が必要なようです。詳しいことは現地に行ってからまた報告します。
 そのジェレズノゴルスク市ですが、核燃料の再処理工場を建設中で2020年度の完成を目指しています。世界中の使用済み核燃料を処理できるように法律を改正して外国の使用済み核燃料を持ち込めるようにしたそうです。そして再処理工場ができるまでは大量の使用済み核燃料を保管しているということです。
 ちょっと気持ちの悪い町ですね。日本の六ヶ所村を大きくしたような町です。
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# by irkutsk | 2006-08-21 10:55 | ロシア | Comments(2)

 8月8日に採用決定の連絡をもらって、9月から新しい学年が始まるので8月中に赴任しなければならないと思い、旅行社にも行き、エイズ検査も一刻も早くと思って近くの千種保健所でなく、わざわざ天白保健所まで行き、そして持っていくものの準備をしていたのに、むこうの担当者から8月10日に、明日から招待状の準備をしますというメールがあった。すぐに作って送ってくれれば20日過ぎには届き、何とか8月中に着けると思っていた。ところが8月17日の夜に来たメールには「今は招待状の準備中です。一ヶ月くらいかかります。できたらすぐにエアメールでお送りします。」と書かれてあった。1カ月ということは9月10日頃に招待状ができてそれから送ってくるということだから、こちらに着くのは9月20日頃、そして出発できるのは9月下旬ということになってしまう。何とも、感覚が日本と違うと言うことを思い知らされた最初の出来事であった。これからもたびたび経験することになるだろう。

 そして、自分が働く場所の名前もわからない状態から抜け出せたのは、8月18日に相手方の学部長からの英文メールであった。苦手な英語を辞書を引き引き訳してみると、次のような内容だった。
 彼女はクラスノヤルスク教育大学の言語学部の学部長で、今私がその大学で働くための招待状や、町にはいるための書類などを事務職員が作っているそうだ。また、大学は今年から日本語の講座を開設し、もう一人のロシア人の先生は東洋研究の講義を担当し、私が日本語の文法、会話、漢字の講義を担当することになるそうだ。
 つまり、日本語の教師は私一人、そして、初年度ということもあって全部私が教えなければならないということのようだ。自分の好きなようにできるというメリットはあるものの大変そうである。早速年間の講義計画を立てなくては。でも週何コマ日本語の授業があるのかわからないし。向こうに聞いてみなくては。
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# by irkutsk | 2006-08-21 10:11 | ロシア | Comments(0)

今年の3月に32年間勤めてきた今の職場を退職し、9月からロシアで日本語教師をすることにしました。ところがさい先悪く、去年の夏にわざわざ現地まで行って今年の9月からの就職をお願いしてきたカムチャッカ国立教育大学に断られてしまった。予定がすっかり変わって、慌ててユーラシア協会本部にロシアから日本語教師派遣依頼が来ていないかと聞いたところ、オレンブルグ大学から来ているということだったので、早速履歴書を書いて送ったが、それ以降何の連絡もなく、こちらから連絡すると、「はっきり決まってから連絡しようと思っていた」とか「向こうと連絡が取れなくなってしまった」という返事で結局どうにもならず、ひたすら待っていたが相変わらす返事はない。7月になっていくらなんでももうタイムリミットじゃないかと思って、電話してみると「いや、まだわかりませんよ。突然返事が来ることもあります。そういう国ですから。」という変に気を持たせるような返事。「向こうから連絡があったら電話してください」とほとんど諦めの境地で頼んでおいたが、やっぱり今に至るまで何の返事もない。

7月になるとさすがに焦って、毎日日本語教師の求人情報をインターネットで見る毎日が続いた。ベトナム、中国、韓国、モンゴルといろんなところから求人が来ているが、できれば近いところの方が時々帰って来られるからと思って上海の2つの学校と北京の学校に履歴書を送って応募した。「書類選考の結果、合格者には電話面接します」ということだったが3校とも返事がなかった。書類選考で落とされたということだ。やはり年齢54歳が大きなネックのようだ。

そんな時、日本語教師養成科で一緒に勉強した仲間からロシアの求人があるといってメールをもらった。同じ日の夜、ロシア人の知り合いが日本語教師を捜している大学があるという情報を教えてくれた。その二つの求人情報はどちらもクラスノヤルスク大学だった。履歴書を送った2日後、「大学の卒業証明書とパスポートのコピーを送ってください」というメールをもらい、これは可能性があるのかと喜んだが、その後1週間たっても何も言ってこない。その間3回も催促メールを出し、ようやく「学部長がいないので返事が遅くなっている。必ず8月7日にメールします」という返事が来た。しかし8月7日も8日もメールが来ず、がっかりして寝ていたら、ロシア人の知り合いから電話がかかってきて、クラスノヤルスク市内ではなくて、ジェレズノゴールスクというところで採用ということで良いかということだった。二つ返事で了承した。9回裏逆転ホームランを打ったような気分で、うれしさで寝付けない夜を過ごした。

翌日、旅行社に行きクラスノヤルスクまでどうやっていくかを相談し、新潟からウラジオストクへ行き、1泊して翌日クラスノヤルスクへ飛ぶということにした。だが向こうの大学から招待状が届かなければビザの申請ができないのでいつの飛行機と特定できない。とりあえず3カ月以上滞在する人はビザの申請にエイズに感染していないという証明書が必要だということで用紙をもらってきた。

そして8月10日、千種保健所に電話をしてエイズの検査をやっている日を聞いたら毎週月曜日で、結果は1週間後しか出ないということだった。14日に検査、結果が出るのは21日、そしてそれからビザの申請、間に合うのかなと困っていると、天白保健所だったら今日の午後やってますよと教えてくれた。3時半から4時半の間やっているということでバスに乗って出かけた。検査だけなら無料だけど、証明書を書いてもらうと有料で1260円取られた。17日の同じ時間に結果の証明書がもらえるそうだ。

そして何よりも待たれるのが向こうの大学からの招待状だ。これがないとビザの申請ができない。待ち遠しい日々が続く。
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# by irkutsk | 2006-08-11 21:22 | ロシア | Comments(1)

 6月12日、宇治の平等院と三室戸寺に日帰りで行ってきたよ。朝9時17分発ののぞみで名古屋から京都まで行き、京都から奈良線に乗り換えて宇治へ。宇治駅前から平等院まで歩いていると、修学旅行中の中学生にあった。平等院は10円玉に描かれている建物です。まず建物を正面から見て、これが10円玉のデザインかと納得。横に長いので写真1枚には収まりきらないサイズ。そのあと宇治平等院ミュージアム鳳翔館をみて、平等院の建物の周りを1周して出口へ。大きな藤棚がいくつもあり、藤の時期(4月下旬くらいかな)に来るときれいだろうなと思った。
 宇治川を渡り対岸のお寺を見て、「あれっ?紫陽花がたくさん咲いているお寺ってどこだっけ?」と案内板を見ても載ってない。お昼ご飯を食べたところに偶然「宇治イラストマップ」というのが置いてあり、それをもらってみると三室戸寺というところが紫陽花の名所らしい。10分くらい歩いていくと帰ってくる人波に出会い、その流れに逆行していくと三室戸寺に着いた。山の斜面一面に紫陽花が咲いておりココまで来た甲斐があったと納得。紫陽花は山の斜面に咲いているので、まず上まで登って、降りながら紫陽花を見る。
 帰りに抹茶ソフトクリームを食べた。おいしかった!お昼も茶そばだったし、よく歩いたから太らないだろう。帰りは京阪宇治から電車に乗り、六地蔵で京都市営地下鉄に乗り換えて京都駅まで行った。かなり大回りになり、時間もお金もかかった。
 京都の地下鉄の乗り換えの時エスカレーターに乗ったら、名古屋とは逆で、エスカレータの上を歩く人は左側、歩かない人は右側だった。名古屋の地下鉄ではエスカレーターを歩いたり、駆け上がったりすると事故につながるので、やめるようにという放送を電車の中でしているが、いったんついた習慣を変えるのは難しいようだ。自分も相変わらず歩かないときは左側に立ってしまう。片側にしか乗らないのは効率が悪いんだけどね。
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# by irkutsk | 2005-06-21 05:50 | お花見 | Comments(1)

最近読んだ本

 ゴールデンウィーク中に読んだ「クラウディア奇跡の愛」を書いた著者村尾靖子さんが、ほかにどんな作品を書いているのだろうかと調べたところ、児童向けの本「命をみつめて」、「江の川」、「草原の風になりたい」などの作品があった。早速図書館に行って「江の川」、「草原の風になりたい」の2冊を借りてきた。
 
 「草原の風になりたい」は1996年の春にモンゴルの草原で発生した火事の際に、羊を守ろうと必死で火を消していた少年ツォゴーが大やけどを負い、大腿部から両足を切断されてしまいます。ニュースでそのことを知った小川さんと宇田さんはツォゴーを見舞い、「もう一度、自分の足で、草原に立ちたい……」という少年の夢を実現させるために動き出します。宇田さんの夫の知り合いで義肢装具会社中村ブレイスの中村社長を始めスタッフの人たちや通訳として協力してくれたモンゴルの留学生など多くの人たちの協力によってツォゴーの義肢がつくられ、ツォゴーは苦しい訓練に耐え、歩けるようになり、モンゴルで馬に乗ることもできるようになりました。
 
 児童向けの大きな字の本であるが、大人が読んでも感動できる内容である。
 
 「江の川」は山陰の小さな村の小学校に通っている小学5年生の女の子なぎさの物語です。お父さんはなぎさの通う小学校の先生です。お父さんの一平は「一平先生」と呼ばれ、生徒に親しまれています。一平先生はクラスの花壇に野菜を植え、生徒たちに自然の大切さや命の尊さを教えています。そして最初の年は一平先生のクラスだけでやった収穫祭を今年からは学校全体として取り組むことになりました。
 9月の収穫祭の途中で一平先生は気分が悪くなり、翌日出雲市の総合病院に行きました。そしてすぐに入院することになり、お母さんもずっと付き添うことになります。なぎさは保育園児の弟一郎と一平先生のお母さんであるおばあちゃんと3人で暮らすことになりました。一平先生は入院してから1週間後、脳腫瘍の手術を受けることになりました。 そして1カ月後一平先生の友達の源さんの車でおばあちゃん、なぎさ、一郎が一平さんのお見舞いに行きます。ところが病院で会った一平さんは誰を見ても見分けられず、話しかけても何の反応も示さない状態でした。
 おばあさんはこのことがショックで、半月ぐらいたった頃からおかしくなりました。孫の一郎に一平と話しかけたり、なぎさに「恵子さん(なぎさのお母さん)」と呼びかけたりしました。夜中に、「表に人がたくさん来ている」と言ってなぎさを起こしたり。近所の人の眼にもおばあちゃんがおかしいというのはわかるようになり、源さんがおばあちゃんを入院させました。そして源さんの家へ来るようになぎさに言いますが、なぎさは自分たちでやっていきますと頑張ります。お父さんの看病をしているお母さんにこれ以上心配をかけまいと、おばあちゃんのことは内緒にしておきました。
 心細いなぎさは母の面影を追って、母親のタンスの引き出しを開けます。そして「二十歳のなぎさへ」という箱を見つけます。なぎさはちょっとだけ覗いてみるつりで箱を開けると、中には手紙が入っていました。一平さんと恵子さんが知り合ってから結婚するまでの間にやりとりした手紙でした。なぎさはそれを読み、二人がどういう思いで結婚したのかを知ります。
 ある日、4年間無遅刻、無欠席のミッキー(一平先生のクラスの生徒)が学校に現れません。家に連絡してみるといつもより早いくらいに出かけたとのこと。ミッキーは先生が勉強することを忘れてしまったので、今度は自分が先生に教えてやるんだと、一人一平先生の入院している出雲市の病院まで行ったのでした。
 その日の夜、お母さんは1カ月半ぶりに家に帰ってきました。しかし、夜中に台所で物音がするのでなぎさが起きて見に行くと、お母さんがお酒を飲んでいるのです。飲めないはずのお母さんがどうして。翌日台所の流しの下の開きを見ると小さな酒びんが二本と少し大きめの紙パック酒が三本もおいてありました。なぎさは心配になり、一平さんの入院している病院の先生に相談することにしました。
 次の日曜日、一平さんのお見舞いに行くと言って家を出ました。病院では一平さんはだいぶいろんなことがわかるようになっていて、担任のクラスの生徒たちに返事を書くからと言って半紙大の紙に「ありがとう。一平」と書きました。
 病室にすらりと背の高い青年医師が入ってきて、一平さんに話しかけたあと、なぎさを八雲立つ風土記の丘へ連れて行ってもいいかなと聞いた。なぎさはこの先生が一平さんと恵子さんが知り合うきっかけになった大介くんだとわかりました。大介先生はお父さんの手術でできもののある場所が悪くて全部取り除くことができなかったということをなぎさに話し、お母さんはそのことを誰にも話せずに一人で苦しんで、お酒を飲むようになったと言うことを教えてくれました。そしてみんなでそれぞれできる方法でなぎさのお母さんを応援していこうと言いました。
 なぎさはその日、お母さんに大介先生にあって一平さんの病気のことを聞いたことを打ち明け、「父さんがいちばんいっしょうけんめいなのよ。私たちが泣いてちゃあいけないと思うわ。母さん。母さんは、もうひとりぼっちじゃあない。つらいのを半分ずつにしましょうよ。そうだ、大介先生だって、仲間だから、苦しみは三分の一ずつよ。」と言います。お母さんはこの日からアルコールをやめる決意をし、何とか乗り切りました。
 一平先生の退院が決まったのは冬休みにはいる少し前でした。学校が冬休みにはいると一平先生のクラスの子どもたちは先を競って一平さんのところに集まってきました。そしてお正月にはおばあちゃんも一時帰宅できるようになり、家族そろってお正月を過ごしました。一平さんの容態が急変したのはそれからまもなくのことで、春に野菜組の子どもたちが進級するのを待っていたように一平さんはあの世に旅立ってしまいました。
 なぎさは登校拒否になってしまいました。そんなある日、お母さんがどこで手に入れたのか、トマトの苗を植えていました。それからしばらくするうちにトマトに青い実がついき、これは一平さんの畑から校長先生が持ってきてくれたトマトの木だと教えてくれました。お母さんは十数年ぶりに浜田の病院で働くことにしたと言い、なぎさも元気を取り戻しました。
 
 幸せのすぐ隣に、悲しみや不幸は待っている。でもその悲しみを乗り越え、トマトのように次から次へと赤い実をつけていくへこたれない生き方を教えてくれえた一冊であった。



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# by irkutsk | 2005-05-15 20:24 | | Comments(0)