ロシアとMacと日本語

irkutsk.exblog.jp
ブログトップ

平等院と紫陽花の三室戸寺

 6月12日、宇治の平等院と三室戸寺に日帰りで行ってきたよ。朝9時17分発ののぞみで名古屋から京都まで行き、京都から奈良線に乗り換えて宇治へ。宇治駅前から平等院まで歩いていると、修学旅行中の中学生にあった。平等院は10円玉に描かれている建物です。まず建物を正面から見て、これが10円玉のデザインかと納得。横に長いので写真1枚には収まりきらないサイズ。そのあと宇治平等院ミュージアム鳳翔館をみて、平等院の建物の周りを1周して出口へ。大きな藤棚がいくつもあり、藤の時期(4月下旬くらいかな)に来るときれいだろうなと思った。
 宇治川を渡り対岸のお寺を見て、「あれっ?紫陽花がたくさん咲いているお寺ってどこだっけ?」と案内板を見ても載ってない。お昼ご飯を食べたところに偶然「宇治イラストマップ」というのが置いてあり、それをもらってみると三室戸寺というところが紫陽花の名所らしい。10分くらい歩いていくと帰ってくる人波に出会い、その流れに逆行していくと三室戸寺に着いた。山の斜面一面に紫陽花が咲いておりココまで来た甲斐があったと納得。紫陽花は山の斜面に咲いているので、まず上まで登って、降りながら紫陽花を見る。
 帰りに抹茶ソフトクリームを食べた。おいしかった!お昼も茶そばだったし、よく歩いたから太らないだろう。帰りは京阪宇治から電車に乗り、六地蔵で京都市営地下鉄に乗り換えて京都駅まで行った。かなり大回りになり、時間もお金もかかった。
 京都の地下鉄の乗り換えの時エスカレーターに乗ったら、名古屋とは逆で、エスカレータの上を歩く人は左側、歩かない人は右側だった。名古屋の地下鉄ではエスカレーターを歩いたり、駆け上がったりすると事故につながるので、やめるようにという放送を電車の中でしているが、いったんついた習慣を変えるのは難しいようだ。自分も相変わらず歩かないときは左側に立ってしまう。片側にしか乗らないのは効率が悪いんだけどね。
d0021786_5494896.jpg
d0021786_5501133.jpg

[PR]
# by irkutsk | 2005-06-21 05:50 | お花見 | Comments(1)

最近読んだ本

 ゴールデンウィーク中に読んだ「クラウディア奇跡の愛」を書いた著者村尾靖子さんが、ほかにどんな作品を書いているのだろうかと調べたところ、児童向けの本「命をみつめて」、「江の川」、「草原の風になりたい」などの作品があった。早速図書館に行って「江の川」、「草原の風になりたい」の2冊を借りてきた。
 
 「草原の風になりたい」は1996年の春にモンゴルの草原で発生した火事の際に、羊を守ろうと必死で火を消していた少年ツォゴーが大やけどを負い、大腿部から両足を切断されてしまいます。ニュースでそのことを知った小川さんと宇田さんはツォゴーを見舞い、「もう一度、自分の足で、草原に立ちたい……」という少年の夢を実現させるために動き出します。宇田さんの夫の知り合いで義肢装具会社中村ブレイスの中村社長を始めスタッフの人たちや通訳として協力してくれたモンゴルの留学生など多くの人たちの協力によってツォゴーの義肢がつくられ、ツォゴーは苦しい訓練に耐え、歩けるようになり、モンゴルで馬に乗ることもできるようになりました。
 
 児童向けの大きな字の本であるが、大人が読んでも感動できる内容である。
 
 「江の川」は山陰の小さな村の小学校に通っている小学5年生の女の子なぎさの物語です。お父さんはなぎさの通う小学校の先生です。お父さんの一平は「一平先生」と呼ばれ、生徒に親しまれています。一平先生はクラスの花壇に野菜を植え、生徒たちに自然の大切さや命の尊さを教えています。そして最初の年は一平先生のクラスだけでやった収穫祭を今年からは学校全体として取り組むことになりました。
 9月の収穫祭の途中で一平先生は気分が悪くなり、翌日出雲市の総合病院に行きました。そしてすぐに入院することになり、お母さんもずっと付き添うことになります。なぎさは保育園児の弟一郎と一平先生のお母さんであるおばあちゃんと3人で暮らすことになりました。一平先生は入院してから1週間後、脳腫瘍の手術を受けることになりました。 そして1カ月後一平先生の友達の源さんの車でおばあちゃん、なぎさ、一郎が一平さんのお見舞いに行きます。ところが病院で会った一平さんは誰を見ても見分けられず、話しかけても何の反応も示さない状態でした。
 おばあさんはこのことがショックで、半月ぐらいたった頃からおかしくなりました。孫の一郎に一平と話しかけたり、なぎさに「恵子さん(なぎさのお母さん)」と呼びかけたりしました。夜中に、「表に人がたくさん来ている」と言ってなぎさを起こしたり。近所の人の眼にもおばあちゃんがおかしいというのはわかるようになり、源さんがおばあちゃんを入院させました。そして源さんの家へ来るようになぎさに言いますが、なぎさは自分たちでやっていきますと頑張ります。お父さんの看病をしているお母さんにこれ以上心配をかけまいと、おばあちゃんのことは内緒にしておきました。
 心細いなぎさは母の面影を追って、母親のタンスの引き出しを開けます。そして「二十歳のなぎさへ」という箱を見つけます。なぎさはちょっとだけ覗いてみるつりで箱を開けると、中には手紙が入っていました。一平さんと恵子さんが知り合ってから結婚するまでの間にやりとりした手紙でした。なぎさはそれを読み、二人がどういう思いで結婚したのかを知ります。
 ある日、4年間無遅刻、無欠席のミッキー(一平先生のクラスの生徒)が学校に現れません。家に連絡してみるといつもより早いくらいに出かけたとのこと。ミッキーは先生が勉強することを忘れてしまったので、今度は自分が先生に教えてやるんだと、一人一平先生の入院している出雲市の病院まで行ったのでした。
 その日の夜、お母さんは1カ月半ぶりに家に帰ってきました。しかし、夜中に台所で物音がするのでなぎさが起きて見に行くと、お母さんがお酒を飲んでいるのです。飲めないはずのお母さんがどうして。翌日台所の流しの下の開きを見ると小さな酒びんが二本と少し大きめの紙パック酒が三本もおいてありました。なぎさは心配になり、一平さんの入院している病院の先生に相談することにしました。
 次の日曜日、一平さんのお見舞いに行くと言って家を出ました。病院では一平さんはだいぶいろんなことがわかるようになっていて、担任のクラスの生徒たちに返事を書くからと言って半紙大の紙に「ありがとう。一平」と書きました。
 病室にすらりと背の高い青年医師が入ってきて、一平さんに話しかけたあと、なぎさを八雲立つ風土記の丘へ連れて行ってもいいかなと聞いた。なぎさはこの先生が一平さんと恵子さんが知り合うきっかけになった大介くんだとわかりました。大介先生はお父さんの手術でできもののある場所が悪くて全部取り除くことができなかったということをなぎさに話し、お母さんはそのことを誰にも話せずに一人で苦しんで、お酒を飲むようになったと言うことを教えてくれました。そしてみんなでそれぞれできる方法でなぎさのお母さんを応援していこうと言いました。
 なぎさはその日、お母さんに大介先生にあって一平さんの病気のことを聞いたことを打ち明け、「父さんがいちばんいっしょうけんめいなのよ。私たちが泣いてちゃあいけないと思うわ。母さん。母さんは、もうひとりぼっちじゃあない。つらいのを半分ずつにしましょうよ。そうだ、大介先生だって、仲間だから、苦しみは三分の一ずつよ。」と言います。お母さんはこの日からアルコールをやめる決意をし、何とか乗り切りました。
 一平先生の退院が決まったのは冬休みにはいる少し前でした。学校が冬休みにはいると一平先生のクラスの子どもたちは先を競って一平さんのところに集まってきました。そしてお正月にはおばあちゃんも一時帰宅できるようになり、家族そろってお正月を過ごしました。一平さんの容態が急変したのはそれからまもなくのことで、春に野菜組の子どもたちが進級するのを待っていたように一平さんはあの世に旅立ってしまいました。
 なぎさは登校拒否になってしまいました。そんなある日、お母さんがどこで手に入れたのか、トマトの苗を植えていました。それからしばらくするうちにトマトに青い実がついき、これは一平さんの畑から校長先生が持ってきてくれたトマトの木だと教えてくれました。お母さんは十数年ぶりに浜田の病院で働くことにしたと言い、なぎさも元気を取り戻しました。
 
 幸せのすぐ隣に、悲しみや不幸は待っている。でもその悲しみを乗り越え、トマトのように次から次へと赤い実をつけていくへこたれない生き方を教えてくれえた一冊であった。



d0021786_2022485.jpg
d0021786_2023512.jpg

[PR]
# by irkutsk | 2005-05-15 20:24 | | Comments(0)

歩く

 この4月からあおなみ線荒子川公園駅から職場まで歩いている。早足で歩いて20分。電車を降り、歩き出すといつも最初の信号で止められてしまう。いまだかつてこの交差点を信号待ちなしに渡ったことがない。交差点を左に曲がると車道と歩道の間の生け垣に赤い花のつぼみがついている。これが全部咲くとどんな風になるのだろうと楽しみだ。すぐに荒子川にかかった橋があり、橋を渡るとすぐ右手に川縁を歩くことができる遊歩道へ降りる階段がある。4月のはじめには紫色の花を付けた野草が遊歩道の右側に咲き、川をはさんで向こう岸には桜並木がつぼみをつけていた。毎日川縁の桜で花見をしながら通うのも乙なものである。桜が終わると遊歩道の左側に一面タンポポが咲き乱れ、黄色い絨毯を敷き詰めたようなった。そしていまはたんぽぽの綿毛が一面に広がっている。50mほどの遊歩道が終わるとあとはふつうの道を歩くことになる。交差点の角に大きな保育園があり、その前を通っていくと左手に大きなクリーニング工場がある。そして右手には小さな印刷所があり、白い小型犬がいる。朝から横になって寝転がっていたり、犬小屋の中に入っていて、顔だけこちらに向けていたりするが吠えないのでいい。もう成犬でかなり年を取っているように見える。クリーニング工場の隣には日用品は何でもそろう大きなホームセンターがあり、時々ここまで花の苗や肥料を買いに来る。ホームセンターの横の交差点を渡ると民家が並ぶ。昔は農家だったのか、家の横に大きな畑がありそこでいろんな野菜を作っている。大根が収穫されることなく畑に放置されていて、もったいないなあと思っているうちに葉がどんどんのびて、白い花が咲いた。もう食べられないが、種を取るんだろうかなどと考えながら歩く。もう少し先には豆が植えてあった。白や紫の花が咲いていて、どんな豆ができるんだろうと楽しみにしていたら、きぬさやだった。今が旬なのだと思って店できぬさやを買ったら、小さな袋に少ししか入っていなくて138円もした。また大きな道路を渡ると「コメダ珈琲」がある。しょっちゅう店の前に歩道に車を停めているお客がいる。店の駐車場が店の横にあり、空いているのにと思いながら歩き、いつまでも撤去されない放置自動車を見ながら3分も歩くと職場に着く。歩くようになって、自転車で通ってたときには気が付かなかったものがいくつも見えてくる。花や野菜を始め、周りの景色を眺める余裕も出てくる。すれ違う人を観察することもできる。しかも健康にも良い。車は特急列車、自転車は急行電車、そして歩くのは普通列車といった感じだ。
[PR]
# by irkutsk | 2005-05-08 14:17 | 考えたこと | Comments(0)

ゴールデンウィークの名古屋競馬

 名古屋駅からあおなみ線に乗って名古屋競馬場へ。名古屋競馬場まで目とハナの先というキャッチフレーズにしては競馬場の正門まではちょっと距離がある。入場料100円を自動改札機に入れて入場。ゴールデンウィーク中ということもあり、噂に聞いたおじいさんばかりの競馬場ではなく、若い人や家族連れもたくさんいた。
 競馬場に着いたときには丁度第1レースが終わったところで、第2レースから買い始めた。まず正門の横で売っていた競馬新聞(「競馬東海」)をみて検討。よくわからないままにいきなり馬単を3通りと複勝を1頭買った。1万円を元手に1レース1000円ずつ買っていこうと決めて買った。スタンドは日陰部分は満員だが、日当たりのいい部分は空いていて、そこに座って観戦。なんと2−5で、当たったと思ったのもつかの間、馬単は5−2で外れていた。複勝で買った馬が3着に入り260円戻ってきた。
 競馬場内には無料のお茶もあり、サービスはまあまあ。馬券売り場の窓口がずらっと並んでいるが、開いているのは1割ぐらい。かつてこの競馬場がにぎわっていた頃には全ての窓口が開いていたんだろう。
 続く3レースは複勝を1頭500円買い、単勝を2頭500円買った。結果は中央競馬から地方競馬に来た馬が新聞の予想通り1着になった。単勝は外れ、複勝の馬がまたも3着に入り180円ついたので900円が戻ってきた。レースが終わるとパドックに馬を見に行く。新聞で印を付けた馬の状態を確かめに行く。毛づやや体の張りを見て問題なければ馬券を買いに行く。パドックでは馬がすぐそばを通るので、馬との距離がぐっと近く感じられる。馬の表情を見ているとかわいい馬もたくさんいる。
 4レースは中央未勝利の馬の単勝を1000円とその馬から馬連で3頭1000円買った。これが見事に当たり、単勝は260円もついた。中央競馬では260円なんて低配当だが地方競馬ではまあまあの配当だと思う。馬連も250円(500円買っていた)ついて、ここでプラスになった。
 5レースもやはり中央競馬未勝利の馬から3頭、馬連で買った。そのうちの一つが当たり380円。300円買っていたので1140円。1000円使って140円のプラス。買っても少しずつしか増えないので、面白くない。あと1レースで帰ることにして、最後の6レースのパドックへ。新聞の本命強力という言葉と、5人がみんな◎を付けている馬の単勝を1000円買った。掲示板を見ていると単勝5番1.3倍と出ていた。そして予想通りぶっちぎりで1着に。払い戻しに行くと1900円も返ってきた。レース直前に出ていたあの倍率は何だったのだ。まあ増えたわけだから文句はないけど。
 今日の成績はプラス2030円。初めての名古屋競馬にしては上出来だった。
 さあ帰ろうと門の方へ行くと正門からは出られずに出口→という矢印の方へ行くと、競馬場の東の端っこまで行ってしまった。あおなみ線の駅とは反対の方でますます駅が遠くなってしまった。西の方に出口はないのか?名古屋競馬は3年後に存廃を決めるということになっている。今日はゴールデンウィークでかなりの人出だったが、ウィークデーの開催ではぐっと減るんだろう。名古屋競馬存続のためにも、これからは時々行かなくては。
d0021786_20302437.jpg
d0021786_20303744.jpg
d0021786_203051100.jpg

[PR]
# by irkutsk | 2005-05-04 20:32 | 見たこと、聞いたこと | Comments(0)

中日快勝

5月3日、連休後半の初日、ナゴヤドームに中日×ヤクルト戦を見に行ってきました。家からドームまでは自転車で6−7分。相変わらず入り口付近ではダフ屋が、「券余ってないか。買うよ」と声をかけてくる。昔、ナゴヤ球場の時代、余った券を売ったことがあるが3500円の内野席の券が500円だった。売るときには定価以上で売ってるんだから半額くらいにはなるかと思っていたのに、500円はショックだった。

天気も良く、ゴールデンウィーク中ということもあって、ドームはレフト側の外野席に空きがあったが、残りははほぼ満席。3時試合開始なので早めに出かけ両チームの練習から見ていた。席は今年から外野も含めて全て指定席になり、私たちの買ったパノラマA(5階席の内野側)は死角になる部分がほとんどなくよく見えた。ゲートを通って席を探すと、なんと目の前のゲートすぐ横、通路の後ろという席だった。通路の前だったら最高だったのに、通路の後ろでは目の前を人が通るたびに見えなくなりちょっと残念。

でも試合内容は最高!1回裏に3点、2回裏に3点を取り、安心して見ていられました。
先発の山本昌は5回を何とか投げきり、後は岡本、川岸が抑え、9対3で勝ちました。
中日の攻撃時間が長かったので試合は3時間を超えました。

やっぱり勝ち試合はいいね。ストレスが吹き飛ぶよね。

今年もリーグ優勝目指してがんばれ。そして日本一も!
[PR]
# by irkutsk | 2005-05-04 07:06 | 見たこと、聞いたこと | Comments(0)

オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法(米原万里著 集英社 1800円)を読みました。発行は2002年10月。ちょっと前に出た本だけど、なかなか図書館で借りられなくて発行から2年半経ってようやく読むことができました。
最初は米原さんのチェコの経験を書いたものかと思っていたのですが、読んでいくうちにこれはすごいとぐいぐい本に引き込まれ、読み終わったときにはオリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナの数奇な人生、そして名もなきソ連市民が経験した過酷な時代が胸の中に残りました。ロシアに関心のある人はもちろん、ない人もぜひ読んでみるとソ連という国がどんな国だったのかよくわかる1冊です。

<本の紹介>
 一九六〇年一月、弘世志摩は父の仕事の都合でチェコスロバキアのソビエト大使館付属八年生普通学校に転入した。その学校にユニークな老女教師が二人いた。ダンス教師のオリガ・モリソヴナとフランス語教師エレオノーラ・ミハイロヴナだった。
 オリガ・モリソヴナは生徒を叱るとき反語法で「ああ神様!これぞ神様が与えてくださった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな天才はじめてお目にかかるよ!あたしゃ嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」と言う。いわゆるほめ殺しである。そしてその服装はとびっきり古風で、1920年代にはとても斬新でかっこよかったものに違いない。20世紀初頭には粋だったような帽子、顔面を覆うベール、付けホクロ、レースの手袋、大振りで大時代的なアクセサリーという身なりの70歳をゆうに越えた老婦人が香水の匂いを振りまきながら校内を傲然と闊歩する。
 そのオリガ・モリソヴナはふとした機会に1930年にモスクワのエストラーダ劇場でソビエトで最初にチャールストンとジターバダを踊ったのはこの私だと言って当時の新聞に載っていた写真の切り抜きを見せてくれた。
 一方エレオノーラ・ミハイロヴナは19世紀貴婦人風の裾の長いドレスを身につけ、志摩を見かけるといつも「まあ、お嬢さんは、中国の方でしょう?」と聞いてくる。そして「いいえ、日本人です」という答えを聞くとがっかりして去っていく。古風で美しいフランス語、ロシア語を話すが、老人性痴呆症が進んでいる様子。
 志摩は一級上のレオニードという少年に恋をし、告白に行くと彼はダンスの天才ジーナと親しげに話していて志摩の恋は破れてしまう。レオニードは母を幼少時になくしソ連の哲学者である父と二人暮らしであったが、その父がある日自殺してしまう。
 一方ジーナはオリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナをママと呼び、彼女たちも自分の娘だと言っていた。彼女はボリショイ劇場バレー学校に転入するためにソ連へ行った。
 志摩と仲良しのカーチャは両親が志摩たちの通う学校の教師をしていた。志摩はカーチャを自宅に遊びに来るように誘うが来ない。その彼女が一度だけ雪の降る日に遊びに来た。そして志摩が日本に帰ってからも文通をしていたが、モスクワに帰ったというカーチャからの手紙にはモスクワの住所は書かれていなかった。文通はここで中断されることになった。
 ソ連崩壊後、志摩はロシアに行きオリガ・モリソヴナについて調べ始めた。そしてそこから判ってきたのは想像を絶するものであった。
 1930年代のスターリンによる粛正。それは一般の市民にまで及び、夜間突然ドアがノックされて連行され、無実の罪で処刑されたり、収容所送りにされる。
 収容所から生還した一人の女性の手記と証言からオリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナが歴史の荒波に翻弄されながらも生き抜いてきた凄まじい体験が明らかになっていく。


[PR]
# by irkutsk | 2005-04-21 05:01 | ロシア | Comments(0)

名城公園の桜もきれいだよ

 春〜っという一日でした。近くの水道みちの桜も満開で、桜を見にきた人たちでいっぱいでした。
妻と二人でこの桜並木の水道みちを歩いて今池まで行き、名古屋城へ。今名古屋城博をやっていて、いつもは天守閣の上にある金のしゃちほこが下ろされていて、触れるとあってちょうど桜も咲いているので見に行こうと出かけたが、地下鉄市役所駅をおりるともうたくさんの人々々。地下鉄の出口を出るとユキヤナギが道の両側に咲いており、ここで早速写真を撮っている人もいた。お堀を渡って中に入るとなんと入場券を買うための行列が100m以上も。とても並ぶ気にはならず、隣にある名城公園に行くことにした。
 途中お堀の中でたんぽぽに囲まれてシートを広げ弁当を食べている家族連れがたくさんいた。坂をおり名城公園に行くと、水の入ったお堀に桜、そして金シャチのない名古屋城が一望できるところにでた。奥へ行くとチューリップが咲いているところもありなかなかいい場所だった。花見といえば名古屋では鶴舞公園が有名だが、名城公園も人が少なく、昼頃に行ってもシートを広げる場所はたくさんあり、意外と穴場かも。
 肉串とビールを買って飲んだが、ゴミ箱がない。屋台の前にも置いてない。しばらく持って歩いていたが、たまたまゴミ箱を置いてある屋台があったのでそこに入れさせてもらった。地下鉄名城公園の駅のトイレに入ると、ゴミ箱がなくてここまで持ってきた空き缶やたこ焼きのパックが捨ててあっった。
 名城公園は桜だけでなく、藤も咲くようだ。長ーい藤棚があり、もう芽が出ていた。4月下旬が見ごろかな。
d0021786_20571041.jpg

[PR]
# by irkutsk | 2005-04-09 20:59 | お花見 | Comments(2)

光になったよ

今朝9時過ぎにNTTの工事の人が来て、モデムをADSL用のものからBフレッツ用のものに取り替えて行った。持ってきてきたノートパソコンで早さをチェックして下り80M、上り30MということでOK。あたらしいモデムはレンタルだから、返す時用に空き箱をとっておいて下さいと言ってかえって行った。ものの5分とかからなかった。ADSLのモデムは残されていたので、とっておくようにと言われた空き箱に入れておいた。
設定も超簡単。マックOSXにはフレッツ接続ツールのCD-ROMはいらないと書かれており、あっという間に終了。早速インターネットにつないで映画の予告編を見ようとしたら見えない!!メディアプレーヤーとリアルワンプレーヤーをインストールすることに。ダウンロードはさすがに早い。
これからは快適インターネット生活ができるかな。
[PR]
# by irkutsk | 2005-04-07 20:31 | あったこと | Comments(1)