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「終わらざる夏」(上)を読みました(1月2日)

「終わらざる夏」(上)を読みました(1月2日)_d0021786_19194113.jpg浅田次郎の「終わらざる夏」(上)を読みました。本が貯まらないように小説は図書館で借りて読んでいるのですが、昨年7月に予約してようやく年末に順番が回ってきました。ちょうど年末・年始にかかったので通常より長く借りられました。でも1月5日が返却期限なので、毎日朝早く起きて467ページを今朝、読み終えました。

敗色濃厚で、多くの日本人が本土決戦の覚悟を強いられていた1945年7月の日本から話は始まります。大本営編成課の甲斐中佐と小松少佐は動員表作成をしていた。天皇陛下は和平を望んでおられる。その際にはアメリカがアリューシャン列島から北千島へと進攻してくるだろうから、北千島の最北端シュムシュ島(占守島)に英語のできる者を配置しておかなければならないと話していた。

この島には米軍がアリューシャン列島から千島を伝って進攻するとの予想から最新鋭の戦車部隊と一個旅団、一万三千の精兵がいた。この時期に実にもったいない話だがこの戦車を他の戦線へ輸送する船舶がないという状態だった。

岩手県の盛岡連隊区司令部では弘前の第八師団司令部から下達された動員命令に頭を抱えていた。三千人にのぼる大動員だが、歩兵は絞り出せば何とかなるが、問題は「特業」と呼ばれる専門技術者の召集であった。そして今回自動車の運転免許を持つもの、医者、英米語通訳の動員があった。

そこで英米語通訳としてぎりぎり45歳未満の片岡直哉が召集される。彼は東京外語学校を卒業し、東京の出版社に勤めていた。召集令状は本籍地に届けられるため、実家の兄が電報を打ってこのことを知らせた。

自動車運転手として、三度目の召集となるのは富永熊男軍曹。彼は昭和2年に入営し、2年後満期除隊となった。再召集を受けたのは昭和6年で満州事変が起こった後だった。この動員では輜重大隊に配属され、そこで自動車の運転と整備を習得した。そして「承徳城一番乗り」、「敵中突破三百里」の功績に対して功六級金鵄勲章をもらう。しかし、激しい戦闘の最中、負傷し、右手の指を3本なくしてしまい、つごう13年にわたる軍隊生活に別れを告げた。その彼に自動車が運転できるということで三たび召集令状が来たのである。

通訳要員の片岡が、学生時代に学費を出してもらうなど世話になった同郷の篤志家安藤仁吉の屋敷に出征の報告のために訪ねた際、そこでやはり同様に召集された医者の菊池忠彦を紹介される。彼は岩手医専を出て帝大の医学部に来た優秀な医者だった。

この3人が終戦も間近い7月10日に弘前の連隊に入営するために弘前行きの列車に同乗する。列車が青森駅まで来た時、将校が乗り込んできて、3人の到着地は北海道の根室だと告げられる。そして3人は根室へ行き、そこから船で千島列島最北端の島、占守島へ行くために船に乗り込む。船と言っても大きな輸送船ではなく、徴発した小さな漁船だ。

千島列島は火山島の連続であるが、このシュムシュ島(占守島)は平地の島で、ソ連領のカムチャッカ半島の南端ロパトカ岬まで僅か12キロのところに位置している。北海道根室からは1200キロもの距離がある。夏は霧に覆われ、9月は晴れた日が多いが、10月の末からは雪が降り始め11月ともなれば猛吹雪になる。海流の関係で気温は真冬でも零下15度を下がることはない。

このような場所に終戦を目前にした7月中旬3人を乗せた船は根室港を出発したのであった。

この小説では戦争というものについての思いを登場人物の口を借りて語っている。例えばこんな風に。「片岡が憎んでいるのは戦争そのものではなかった。非常時の名の許に、あらゆる自由が奪われてゆくことを、心から憎悪していた」、「軍人としての存在理由-それは自分以外の利益のために死ぬことだ。その理不尽を大義と称えるならば、人類が等しく希求する自由は永遠にありえない」。

また、飲んだくれの軍曹富永熊男は「俺は酔ったぐれではねえぞ。俺とお母さんだけがしらふで、日本国中が酔ったぐれだらけだべじゃ」と言っている。

片岡が妻久子へ宛てた手紙の中では「戦争は人間の思想や倫理や哲学をことごとく破壊する、超論理の無茶ですね」と書いている。

また根室から3人を乗せて行く船の操縦をしてる兵隊は「兵隊というのは妙なもんです。戦地に出て初めのころは、何だって怖いばかりなのですが、そのうち命がかからないともの足りなくなる。怖いのがふつうになると、命がけが当たり前だってんですから、兵隊っていうのはつくづく因果な稼業です」、「今日はたぶん死ぬだろう。おや死ななかった。生きるということはそれの連続でして、ほかにはどうという思いもありません。第一、戦をしているという実感が湧かんのです。敵機が来れば対空射撃ぐらいはしますけれど、だからといって敵兵と戦っているという気はしない。人間同士が殺しあっているのではなく、機械と機械が壊し合いをして、その機械を操っている人間が一緒に壊れちまうんです」と語っている。

「戦争とは国家の争いではなく、人間をどこかに拉し去る魔物にちがいなかった。」
「戦争とは、命と死との、ありうべからざる親和だった。ただ生きるか死ぬかではなく、本来は死と対峙しなければならぬ生が、あろうことか握手を交わしてしまう異常な事態が戦争というものだった」

「終わらざる夏」(上) 浅田次郎 集英社 2010年7月10日発行 1700円+税
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by irkutsk | 2011-01-02 19:19 | | Comments(0)