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「骸骨ビルの庭」(上・下)を読みました(1月12日)

「昭和16年に英国人の設計によって建てられた3階建てのビルを壊す」という役割を担って管理人になった私(八木沢省三郎)が3カ月間に見たこと、感じたこと、起こったことを大学ノートに書き付けたものです。
このビルは大阪の十三(じゅうそう)にあり、このビルを建てた杉山轍太郎は昭和20年8月2日に疎開先の岡山県で脳出血のため死亡した。妻のソノもその翌年にすい臓がんで亡くなった。杉山夫妻には子供がなく轍太郎は愛人との間にできた男の子を認知していた。

その子どもは阿部轍正といい、昭和18年に招集されたが、昭和24年5月に生きて帰ってきた。27歳だった。轍正の母親の菊子も二人の妹も空襲で死亡していた。いかなるいきさつがあったのか不明だが、阿部轍正が杉山ビルヂングに居を定めたのは昭和24年12月であった。

阿部轍正は平成元年8月に67歳で死去するまで独身をとおした。けれども戸籍上の子どもは6人いた。6人は杉山ビルで阿部轍正に育てられ、本人の同意の上で養子になった戦災孤児たちだった。そのうちの一人である女性から、かつて阿部轍正に性的暴行を受けたと訴えられ、マスコミの格好の標的とされてしまった渦中に、心筋梗塞で息を引き取ったのだった。

阿部轍正の死によって杉山轍太郎たちの甥たちが平成2年に新たに連名で訴訟を起こすと脅した。だが、ある時期から杉山轍正の補佐役となって戦災孤児たちを育ててきた茂木泰造は、6人の養子の代理として、自分たちは裁判で争う気はなく、杉山ビルを譲渡すると申し出た。ただし条件がある。杉山ビルで阿部轍正に育てられ、いまでもビル内を居住の場としたり、自分の仕事場に使っている者たちが新しい場所を見つけるまで猶予をいただきたい、と。甥たちはそれを認め、三年間の猶予を与えることで合意したのだった。

合意書を交わして3年が経っても、彼らは杉山ビルから出て行かなかった。それで甥たちは「アオヤマ・エンヴァイロメント」に委託して土地の売却を急いだ。猶予期限が過ぎたのち、最初に立ち退きのための折衝にあたったアオヤマ・エンヴァイロメントの社員も、その役目を引き継いだ二番目の担当者も、彼らを速やかに立ち退かせるのは難しく、自分にはその人は重すぎると泣きを入れたが、何故難しいのかを具体的には説明できなかった。前任者二人は、上司にいかに叱責されようとも罵倒されようとも、その任を解いてくれるよう懇願したのだ。

三人目の担当者となった八木沢省三郎は大学を卒業してからずっと大手家電メーカーで営業マンとして働いてきた。何カ所かの長い地方勤務のあと44歳で東京本社勤務を命じられた。ところがその頃から会社の業績は急速に悪化し、大幅なリストラが行われた。八木沢は「人生は60からだ」という考えで、今からそこに目標を定めて準備すべきではないかと、平成5年12月31日付で退職した。まだ46歳だった。妻の真菜子は先のことなど全く心配しない楽天的な性格であったし、息子の正比古は高校2年の春から学校に行かなくなっていた。父親として時間をかけて彼と向かい合いたいという思いも後押ししたのだった。

各部屋を住居や事務所に使っているのは8人と教えられていたが、郵便受けに書かれてある氏名と社名を数えると11人。2階に5人、3階に6人。それぞれ個性的な住人たちで、八木沢は彼らから話を聞いたり、彼らを助けたり、助けられたりして行くのだが。

平成6年2月20日から5月31日までの約3か月間、骸骨ビルの1階に住み、孤児たちを育てた阿部轍正や茂木泰造、そして彼らに育てられた孤児たちについての話を本人たちや近所の人たちに聞くなかで、阿部と茂木がどうして孤児たちを育ててきたのかが浮き彫りにされてくるとても興味深い本でした。

骸骨ビルの庭(上・下) 宮本輝著 講談社 2009年6月23日発行 各1500円+税
                 講談社文庫 2011年12月15日発行 各600円+税
「骸骨ビルの庭」(上・下)を読みました(1月12日)_d0021786_15115047.jpg「骸骨ビルの庭」(上・下)を読みました(1月12日)_d0021786_1512343.jpg
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by irkutsk | 2012-01-12 15:12 | | Comments(0)