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ワイルド・ソウル(上)を読んでいます(7月9日)

ワイルド・ソウル(上)を読んでいます(7月9日)_d0021786_2105726.jpg垣根涼介の「ワイルド・ソウル」を読んでいます。先日読んだ「ちきりんの世界を歩いて考えよう」の中で、この本を読んでブラジルへ行ったと書いてあったので、さっそく読んで見ることにしました。

この本に書かれていることは戦後のブラジル移民のことです。私の小学校の時のクラスメートの女の子も家族でブラジルのサンパウロに行くといって転校して行きました。丁度その頃1961年秋に「ブラジル丸」でブラジルに渡った衛藤一家(妻と弟と本人の3人)の話からこの小説は始まります。

衛藤は23歳。外務省移民課及びその下部組織である海外協会連合会(現在のJICA)が主幹となってブラジル移民を募集していた。当時の日本政府が発行した「移住者募集要項」にはアマゾン各地に散らばる入植予定地は農業用地としての開墾がすでに終わっており、灌漑用水や入植者用の家も完備されていると謳われていた。しかも入植する家族にはそれぞれ20町歩もの土地が無償で配分されるのだという。

日本を出港して1ヵ月後、船はアマゾン河口の町ベレンに到着する。そしてベレンからさらに船を乗り換えて10日後にアマゾン中流域最大の都市マナウスに到着した。ここでさらに小さな船に乗り換えさらに奥にあるクロノイテの入植地に到着したのは12家族50人ほどだった。

だが船を下りた場所は暗い密林に覆われた場所で、灌漑用水も入植者用の住宅はおろか開墾済みの畑さえもどこにも見当たらなかった。しかし退路を断たれた彼らはここで生活を始めるしかなかった。まず仮住まいの小屋を建てることから始めた。

12月下旬からアマゾンは6月まで雨季に入り、連日雨が降り続いていた。そんな中での開墾作業は苦難を極めた。

2月、雨であちこちに水たまりができ、大量に発生した羽斑蚊が病原体であるマラリア原虫を運んできて、入植者たちを襲った。1ヵ月後3人の死者が出た。またアメーバ赤痢に冒されるものも続出した。衛藤も罹患し、下痢や吐血で力が入らないが、森へ入って果物や木の実を集めていた。そんな時原住民の若者に出会い、彼に薬草をもらいアメーバ赤痢は治った。同じ病で苦しんでいた野口の妻にもこの薬草を与え、彼女も一命を取りとめることができた。

6月、雨季の最後の月に入ったある日、大雨が降り、今まで開墾して田植えをした田んぼがすべて流されてしまった。入植地から逃げ出すものは後を絶たず、1年もたたないうちに入植者は6家族19人にまで激減した。翌年高台に作った田んぼには稲が順調に育って穂が実り始めた頃、立ち枯れし始めた。土壌に含まれる何かしらのカビや細菌が稲の根や地際の茎を冒したのだった。

9月、衛藤の運命を変える決定的な出来事が起こった。黄熱病に妻と弟が倒れ、発病から7日目に弟が、9日目に妻が息を引き取った。衛藤は自殺しようと森の奥に入っていったが、野口に助けられる。

彼は入植地を出る決心をしたが、野口夫妻は「ここに残る」と言った。船を乗り継いでマナウスに着いたのは約1ヵ月後だった。波止場で荷役夫として働いている男と知り合いになり、彼の話を聞くと次のような話しだった。

 1954年男の家族はアマゾン中流域のベルテーラにあるブラジル政府直轄のゴム農園に雇用労働者としてやってきた。ゴム農園への移民者は400人ほどで、ベレン到着から話はもつれた。日当が「募集要項」に記載されていた金額の三分の一だと言う。これでは日々の生活にも支障をきたしかねない。苦情を言っても聞き入れてもらえず、結局安い給料で働くことになった。ところが今度は、ブラジル政府はアマゾンの開拓民として受け入れると日本政府と取り決めがあり、政府直轄農場の雇用労働者として受け入れるわけにはいかないとして、アマゾン各地に散らばる直営開拓地に半強制的に移住させた。

衛藤はこの男の紹介で荷役夫をやることになった。そしてここで金をため、64年6月ベレンへと向った。ベレンでは日本領事館に文句をいいに行くが「事前に予約がなければ領事には会えない」と追い返される。そして領事館の前で泣いているところをエルレインという娼婦に声をかけられ、彼女のアパートに住まわせてもらうことになった。彼女は衛藤のことが気に入り、いつまでもここにいていいと言ってくれたが、ヒモのような生活に甘んじられず、衛藤はエルレインに話して、ベレンを出る。

丁度その頃シェラ・ペラーダと呼ばれている未開の土地から金が出始めたということでみんな一攫千金を求めて集まっていた。そこで知り合った山本という青年と二人、採掘場所を変えて前よりも多くの金が取れるようになり、数年は遊び暮らせるだけの砂金がたまり、山本は一緒にサンパウロに行こうと誘うが衛藤は断り、一人残って砂金を採り続けていた。

そしてある夜半過ぎ、衛藤のテントに数人の男たちが押し入り、銃で脅して彼の隠していた砂金を奪い、彼の右ひざを踏み砕いた。翌日たまたま通りかかった男に助けられた。砂金集めの同業者たちのカンパによって、彼はここから沿岸部を通ってリオデジャネイロまで辿り着いた。そこで清掃会社の臨時職員になった。ここへきて初めて日本がどういう経済状況になっているのかを知ることになった。衛藤が日本を出るのと相前後して世界史上でも稀な空前の経済成長が始まっていたのだ。

1969年衛藤はサンパウロにいた。砂金集めを一緒にやっていた山本がサンパウロに行くと言っていたので、彼の消息を尋ね歩いたが、彼はサンパウロにはいなかった。あり金を使い果たし、穴だらけで汚れきった服を着て、骨と皮だけになりはてた衛藤は公園のベンチに横たわっていた。そこへある男が声をかけてきた。そして「飯を食わせてやる」と言って近くの騒々しいレストランに連れて行かれた。「どうして俺を助けたのか」と聞くと、彼も「15年前この国にやって来て飢えていた時期がある。そのときある男がおれを救ってくれたその借りを返したい」と言うのだった。「だがその相手はおれじゃない」「それでいいんだ」「おれはその相手から受けた恩をおまえに返す。おまえも、このおれから受けた借りをいつかは誰かに返す。そういう風にして、世界は繋がってゆく」。

この男はレバノンの出身でハサンという名前で、雑貨屋のオーナーだった。彼は衛藤に仕事も世話をしてくれた。青果市場の仲買人見習いの仕事だった。朝3時に市場に行き、帰ってくるのは夜の9時か10時だった。そして72年の初め、彼は独立を決心し彼の商売は倍々ゲームで大きくなっていった。

そしてアマゾンを出てから10年、彼はベレンで世話になったエルレインを訪ねる。彼女が住んでいたアパートは火事で燃えてしまっていたが、彼女は無事で、小さなキオスクをやっていた。9年ぶりに彼女と再会し、クロノイテに行ってすべてにケリをつけてくるからあと3週間待ってくれと言う。そして最初に送り込まれた入植地クロノイテへと向った。だがそこにはすでにだれも残っておらず、野口夫妻は少し前に亡くなったようだった。そして彼はそこで野口夫妻の息子ケイイチと遭遇するのだった。

以上が第1章「アマゾン牢人」のあらすじである。そして第2章からは現在の話になる。50年前、ブラジル移民は政府の棄民政策として行われ、騙された多くの日本人が無念の思いでブラジルの地で命を落としていったことをおもうと、国というのは何と極悪非道なものか。今もその本質は変わっていない。国民のことを思う国家などというものは幻想でしかないということをつくずく思い知らされる本です。

「ワイルド・ソウル」(上) 垣根涼介 幻冬舎文庫 2006年4月15日 720円+税
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by irkutsk | 2012-07-09 21:01 | | Comments(0)