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「収容所から来た遺書」を読みました(8月27日)

「収容所から来た遺書」を読みました(8月27日)_d0021786_1184843.jpg1948年9月下旬、2年半収容所生活の後、ソ連のウラル山中の街、スベルドロフスクの駅を発ち、バイカル湖を過ぎ、もうすぐハバロフスクというところまで列車は来ていた。貨車に押し込まれた捕虜の日本人はダモイ(帰国)だと期待に胸をふくらませていた。

だが、突然列車が止まり、この本の主人公・山本幡男始め二十数名の日本人は列車から降ろされ、ソ連兵に連行され、それから1か月ほど経った11月始めにハバロフスクのラーゲリ・第18分所で山本の姿が目撃されている。

最初のスベルドロフスク収容所に山本を含む一千名の捕虜がやって来たのは1946年4月29日だった。食事は1日に黒パンが350g、朝夕にカーシャと呼ばれる粥が飯盒に半杯ずつか、野菜の切れはしが二、三片浮かんだ塩味のスープ、砂糖が小さじ一杯支給されるだけだった。

そんな過酷な状況の中、山本は同僚の松野に勉強会をやろうと声をかけた。「生きて帰るのだという希望を捨てたらじきに死んでしまうぞ。頭を少しでも使わんと、日本へ帰っても俘虜ボケしてしまって使いものにならんからね」と言ったのだった。

山本はロシア語ができたので、最初は通訳をしていたが、捕虜になる以前、何をしていたかという調査が進められ、彼は通訳の役も取り上げられた。山本は1908年島根県隠岐郡西ノ島町に6人兄弟の長男として生まれ、松江中学を優秀な成績で卒業すると1926年東京外国語学校に入学した。山本はそこでマルキシズムの影響を受け、社会科学研究グループに属していた。1928年、卒業まぎわに3・15事件がおき、山本も逮捕され、退学処分を受けた。その後、渡満して大連の満鉄調査部に入社し、ロシア語の実力を買われて北方調査室に配属された。

1948年ハバロフスクの手前で列車から下ろされた山本が連れて行かれた第18分所では収容所内で民主運動を率先してやっている活動家(アクチブ)たちに吊るし上げられ、痛めつけられた。その頃収容所内で吹き荒れていた民主運動は厚生省の「引揚援護の記録」によると次のような3期に分かれていた。
第一期懐柔時代(入ソ当初)
第二期増産期間(入ソ一年以降)
第三期教育期間(昭和23年当初より)
ソ連側が求めた人材は、ソ連政府の打ち出す現実政策を盲目的に受け入れ、共産主義運動を積極的に実践してくれるような人間だった。そして第三期において民主化運動が不幸な経緯をたどるのは、俘虜たちの最大の願望「ダモイ」を民主運動に駆り立てる餌にしたからだった。だから日本人同士の密告は日常茶飯事であった。

1948年ハバロフスクの監獄へ入れられた後、山本は「地獄谷」と呼ばれる囚人ラーゲリへ送られる。このラーゲリでの主な作業は鉄道工事であった。その後、ソ連の裁判所で重労働25年の判決を受け、戦犯となり、「矯正労働収容所」第6分所へ入れられた。

1950年4月、収容所の中から二十数名の帰還者名簿が発表され、その中には重労働25年の刑を受けた者もいたが、山本は含まれておらず、彼はその後、第21分所に移された。

第21分所では、山本は日本人の間でアムール句会を作り、それぞれに俳号もつけ、セメント袋に書き付けた句を選評し、その後は紙を土に埋めたり、ちぎって捨てた。句会の折に山本が熱をこめて語ったのは次のようなことばだった。「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」

収容所の中の山本は、どんなに理不尽であっても絶望することなく、今いる状況の中にも喜びも楽しみも見いだし、しかもそれを他人に及ぼしてしまうところがあった。

1952年5月21日、収容所へ日本の参議院議員高良とみがやって来た。この高良とみの訪問後、はじめて祖国とのはがきによる通信が許されるようになった。往復はがきで、日本からの返信も受け取ることができるようになった。山本も家族にはがきを出し、返事も受け取り、生きる励みになった。

そして、1953年3月5日スターリンが死に、ダモイが実現するのではないかという気分が収容所内をおおった。日本からの小包も突然許可になった。収容所の日本人、千余名のうち400名が帰国できることになり、収容所を発って行った。

しかし、山本は帰還者名簿にはなく、1953年の5月初め頃からのどの痛みを訴えて、ラーゲリ内の病院に入院していた。病状が一向に回復しないので仲間たちは設備の整ったハバロフスクの中央病院で検査してくれるよう嘆願書を出したが許可されなかった。

山本の病状は悪化の一途をたどり、首が風船玉のように大きく膨らみ、患部が破れ、そこからは異臭が漂っていた。仲間の佐藤健雄は山本の病室を訪れ万が一を考えて、奥さんやお子さんに言い残すことがあれば書いておいてほしいと言った。

翌日、作業を終えた佐藤が病室を訪れると山本はノートを差し出した。遺書は全部で4通、ノート15ページにわたって綴られていた。1通は「本文」、他の3通は「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」となっていた。

「子供等へ」の遺書の一部を紹介したい。
「さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんなつらい日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化――人道主義を以って世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
 また君たちはどんなにつらい日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ」

山本が亡くなったのは、1954年8月25日だった。収容所の日本人はみんな作業に出ていて、山本は誰にも看取られずに息を引き取った。帰国の際はすべて書いたものは没収されるので、山本の遺書を持って帰ることはできず、仲間たちは数人で手分けして、遺書を暗記して自らの帰国の日を待っていた。

1956年10月19日、鳩山首相が訪ソし、日ソ共同宣言と通商議定書が調印され、ソ連の国内法で戦犯とされた日本人抑留者全員の釈放が急遽決定した。12月22日、最後の長期抑留者は第二ハバロフスク駅からナホトカへとシベリア鉄道で向かった。列車はすべて寝台車で、それまで貨車か檻つきの囚人護送車にしか詰め込まれたことのない人々を戸惑わせた。

1956年12月24日の朝、興安丸はナホトカの岸壁に横付けになり、タラップが下ろされた。夕食の膳には赤飯に鯛の尾頭つきと刺身、そのうえ徳利が一本並んでいた。箸を使うのも、日本酒を飲むのも11年ぶりだった。

帰国後、山本の遺書を託された仲間たちは、大宮に移り住んでいた山本のうちを訪ねて、彼の遺書を渡すと共に、収容所内での彼の様子を伝えたのだった。

学生時代マルキシズムの影響を受け、ソ連を信じていた山本だったが、現実のソ連は違っていた。でもそのことに絶望することなく、いや当初は絶望したかもしれないが、長い収容所生活を前向きに生き、それを周りの人たちにも勧めた山本幡男の抑留生活に感動しました。ダモイを諦めて白樺の肥やしになると絶望した「白樺派」の人々を奮い立たせ、みんなで一緒に日本へ帰ろうと励まし、俳句を作ることによって日々の生活に喜びを見出だすことを教えた山本氏。彼のおかげで生きて日本へ帰ることができた人も多かったのではないだろうか。

シベリア抑留とは何だったのかを考えさせられる一冊でした。

「収容所から来た遺書」 辺見じゅん 文芸春秋 1989年6月25日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2013-08-28 11:09 | | Comments(0)