「鏡の花」を読みました(9月13日)
かつて父や母、そして姉の翔子が住んでいたうちには、現在、瀬下というおじいさんが一人で住んでいる。そしてその人の話を聞くと、9年前、翔子は2階のベランダからバケツに乗って身を乗り出し、濡れていたアルミの柵の上で身体を滑らせて転落したのだった。
小説に出てきた翔子はすでに死んでいて、章也は姉が死んでから生まれてきたので、姉のことは知らないのだ。でも二人でやって来た。
ここまでなら、死んだ人の魂が近しい人に見えているというよくある話なのだが、2章、3章と読み進んでいくうちに頭の中が混乱し、やがてこんな風に小説を作ることも可能なのだという驚きに変わった。もし、翔子が生きていて、章也が死んでいたら。瀬下夫婦は1章では2年間に妻の栄恵はすい臓がんで死んでいたが、別の章では生きていた。彼らの息子の俊樹は大学を卒業して、就職し、転勤になるが、崖から落ちて死んでしまう。ところが別の章では瀬下の同僚の娘と結婚して子どもが生まれる。
ひとつの事実を提示し、それがそうならなかったらどうなっていたかを提示しているおもしろい形の小説だった。だから人がよく死んで、その死をめぐって自分がああしたから、あるいはしなかったから死んでしまったんだと自分を責めるシーンがよくでてくる。でもそれは運命であり、その人自身がそうなるという自分の運命をあらかじめ計画して生まれてきたんではないだろうか。だから、周りの人が私のせいであの人が死んでしまったと罪の意識を感じることはないと思う。
最後の7章が「鏡の花」というタイトルだが、そこでは鏡についてこちらの世界とあちらの世界をつなぐものとして古来鏡が使われてきたと言うことが書かれていた。またその話を信じておじいちゃんに会いに孫が夜中に鏡を持って湖へ行くのだが…。
あの世というものがあったとしても、この世とあの世の行き来はできないとわたしは思う。あの世は時間や空間から開放された無限の世界だと思うので、あの世に行った人はこの世のあらゆる束縛から解放されると思う。だから7章でおじいちゃんが孫娘の美代にやけどをさせてそれを死ぬ間際まで謝っていたのを気にして、「鏡を嫌いになっていないし、おじいちゃんのことも大好きだよ」とあの世のおじいちゃんに言いに行こうとするが、おじいちゃんはすでにあの世から美代の気持ちを見てわかっていたのだ思う。
道尾秀介氏のこの本には、その構成力に感心しました。
「鏡の花」 道尾秀介著 集英社 2013年9月10日発行 1600円+税