「一週間」を読みました(11月6日)
月曜日にこの新聞社へ送られた小松はそこで翻訳班の酒井忠志と会い、彼と話しているうちに彼も共産党員だったということがわかり、戦中の国内でのお互いの党活動のことを語り合う。
火曜日は入江一郎という軍医中尉がミチュリンスクの捕虜収容所から脱走し、逮捕され、ハバロフスク将校収容所にいるので、彼から3千キロにわたる脱走の顛末を聞くことになった。そして日本人捕虜が脱走などするものではないと思うような記事を書くというのが仕事だった。ところが聞いてみると、入江軍医はあちこちで医者という力を利用して、ロシア人に助けられ、ソ連脱出まであと一歩というところまで逃げおおせていたのだった。そして彼がカスピ海の西にあるバクーまで来て、そこの公園でひまわりの種を売っている娘と出会い、彼女の祖父がかゆがって狂いそうだから何とかしてくれと頼まれる。彼女の祖父はかつてペテルブルグでレーニンと共に弁護士事務所で仕事をしていた。彼はカルムイクの法律学校の教師になり、レーニンとも文通をしていた。そしてレーニンからの手紙を1通だけとってあるという。そこにはレーニンが自分の母方にはユダヤ人やドイツ人の血が流れており、父親はカルムイクの出身であるとかかれていた。そして「少数民族のしあわせをいつも念頭において政治闘争を行う活動家になることを誓います」と書かれてあった。だがレーニンは裏切った。後に革命が成功したあと、彼は社会主義の利益は諸民族の利益にまさると言ったのだった。その手紙をチェチェン人のおじいさんは入江軍医に預けたのだ。そして脱走の顛末を話した後、それを小松修吉に託したのだった。
このレーニンの手紙をめぐって、極東赤軍は手を変え品を変え、硬軟織り交ぜて、彼にその手紙を渡すように強要するのだった。だが小松修吉はその手紙を武器に、日本へ帰ろうと交渉するのだが…。
シベリアの捕虜収容所の様子が書かれていました。捕虜収容所では日本の軍隊組織を温存して捕虜を管理したため、収容所の下級兵士は地獄だったそうだ。「捕虜収容所の七大地獄とは一が寒さ、二が旧軍隊制度、三が空腹、四が便所掃除、五が終夜の焚火番、録画水汲み当番、七が南京虫である」。
戦争中の日本共産党とコミンテルンの関係や、日本政府が関東軍の兵士を労働力として使ってくれと申し出ていた事実や、収容所で旧軍隊組織を利用したために多くの兵士が死んでいったことなど今まであまり知られていなかったことが、詳しく書かれています。しかも小説仕立てなので読みやすく、524ページもある本だが先を知りたくてどんどん読めました。井上ひさし氏が最後の手直しをする予定であったが他界され、それも叶わなかったのは残念です。
「一週間」 井上ひさし著 新潮社 2010年6月30日発行 1900円+税