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「親鸞」(上)を読みました(3月11日)

「親鸞」(上)を読みました(3月11日)_d0021786_10121936.jpg同年代の友人二人に勧められたので読んでみることにしました。

上巻では親鸞の幼少期から青年期までが描かれている。親鸞の父は日野有範といい、都から東南に少し離れた日野というところに住んでいた。朝廷の下級の官人だった。後の親鸞こと忠範は男ばかり5人兄弟の長男だった。父が突然家を出て仏門に入ってしまう。母は一人で子どもたちを育てるが、まもなく母も流行り病であっけなく死んでしまう。

上の子ども3人は京に住む伯父の範綱に引き取られ、下の2人は日野の縁者の家に預けられた。伯父の家の召使犬丸とその妻サヨに可愛がられて育った忠範だったが、伯父の家も苦しく、忠範は9歳で寺に出されることになる。そして彼は寺へ行くなら比叡山に行きたいと言い、稚児としてまず白河房に入る。

そこで忠範は仏教の勉強と修行を重ね、19歳になる。都では山を下りた法然房が都の公家、武士、こじき病者、遊び女、悪党の間で人気になっているという。そこで法然房が何を教えているかをその耳で聞き、目で確かめよと高僧の慈円に言われる。法然房の教えとはどんな悪人も念仏を唱えれば浄土へいけるという教えであった。

忠範は奈良へ行き、聖徳太子の廟を訪れる。そこで三日間の断食の行を行うのだが、その最中、彼は若かりし日の聖徳太子の姿を見るのだった。そして、「そなたの命は十余歳でつきるだろう」と言われる。その後、二上山から葛城山の古道を歩きながらそのことばの意味を考えるのだった。日が暮れ、あるお堂を見つけそこで泊まろうとしたら、中には女が一人いた。傀儡の女で、時には体も売るという。彼女に請われて念仏を聞かせると、抱いてくれと言う。断ると、「私を汚いと思っているんだろう、穢れるのがこわいんだね」と言われ、それを否定するのだったが添い寝しただけであった。

白河房へ戻り、範宴(忠範)は「人間はなぜ仏を求めるのか。そもそも仏とは、一体なんであろうか?」という疑問を抱くようになる。その答を見出そうと苦しい荒行に精を出すが答えは一向に見つからない。範宴は巷の庶民が集う寺・六角堂へ百日参籠することにする。そこで偶然にも幼い頃に知り合った法螺房に出会う。彼はそこで病者の施療所を作っていた。彼に手伝ってくれと言われ、手伝うことになった。

子どもを連れた母親がやってきて助けてくれと言う。子どもの背中には紫色の腫れ物があり、黄色い膿が盛り上がってきて、今にも噴きこぼれそうになっている。法螺房に「おぬしがやってみろ」と言われるが、「自分にはなんの知識もないし、加持祈祷の修法は苦手だ」と言う。それに対して法螺房は「よいか、仏の教えとは、そも、何であるのか。目の前の苦しむ者、痛みをかかえた者にそっぽをむいて悟りがえられるのか。僧はよく、心を救うのが仏法だという。しかし、人は心身一如。この子の苦しみ、母親の悲しみを救うには、いま、このとき、この腫れものを退治することだ。ここで経論をのべたてたところでどうなる」と言う。法螺房は子どもの背に食らいつき、膿を吸い、吐き出す。何回かそれを繰り返し、膿を吸い尽くした後、範宴に「できものの奥の肉のあいだに、腫れ物の芯がある。そいつを吸い出してしまえば、二度とこの子に腫れ物はできない。どうだ、範宴、やってみるか」と言われ、範宴はやってみる。そしてようやく腫れ物の芯が飛び出し、勢いよく範宴の口の中に飛び込み、喉を通って胃のなかにおさまった。

当時の仏教が庶民から離れ、権力者と同じような生活、権力をふるう仏教のあり方に疑問を抱き、庶民を救うための仏教の原点に立ち返ろうとする範宴の姿が生き生きと描かれている。

「親鸞」(上) 五木寛之著 講談社 2010年1月1日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2014-03-11 10:12 | | Comments(0)