人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ロシアとMacと日本語 irkutsk.exblog.jp

関心のあるいろんなこと書きます


by irkutsk
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「凍りの掌」(こおりのて)を読みました(8月12日)

「凍りの掌」(こおりのて)を読みました(8月12日)_d0021786_118492.jpgシベリア抑留の体験を父から聞き、それを漫画化した“おざわゆき“さんの作品です。

おざわさんのお父さんは大学生の予科に在籍していた昭和20年1月に召集され、兵庫県加古川市の北の歩兵連隊に入営した。そしてわずか2週間後には北満州遜呉へ移動となった。関東軍の兵士が南方へ送られ、その後の補充のためであった。昭和20年2月20日に北満州遜呉に到着。

そして8月9日、突然ソ連軍が侵攻してきた。だが8月15日には上官に停戦だと言われ、武器をすべて提出し、丸腰となり、衣服を与えられ、糧秣倉庫のものを自由に持っていってよいといわれた。だがすぐにソ連兵につかまり、捕虜となる。

「ヤポンスキ、ダモイ」と言われ、日本へ帰れると思っていたら、黒竜江からソ連の船に乗せられ、さらに歩かせられキヴダ収容所へ。満州を出たときは夏だったので、誰も冬服は持っておらず、寒さに震えることになる。そして最初にやらされたことは自分たちの住むことになる宿舎作りだった。穴を掘ってその穴の中に家を建て、屋根には土を載せて寒さ対策をした。食事は黒パン一切れと高粱のスープが1日に2回。

そこでの次の作業は炭鉱での石炭堀りだった。そして寒さと飢えで仲間たちが一人、二人と死んでいった。次にさせられた作業は石炭の露天掘りだった。マイナス30度の極寒の中で凍った石炭をつるはしで掘らされた。マイナス40度になると作業は控えられたが、マイナス30度は本当にきつかった。マイナス20度があたたかく感じられたという。この年の寒さはことのほかでキヴダの収容所の半数が犠牲となった。

そして小澤昌一も急性肺炎にかかり、生死の境をさまようことになった。幸い命はとりとめ、編成替えにより小澤はライチハに送られた。ここには八千人ぐらいが収容されており、食事もキヴダよりは少しだけよかった。ライチハは炭鉱場だったが、やらされた作業は土木作業で、穴掘り、溝堀、道路作りだった。一番大変だったのは石割り作業だった。貨車で運ばれてきた石をつるはしで砕き、それをまた建設現場へ送り出すのだった。レンガ作りの作業もあった。

そしてある日突然、日本新聞が掲示板に貼り出された。日本新聞とともに「民主化運動」が始まり、旧将校たちが吊るし上げられた。また兵隊たちも密告で過去の履歴を種に吊るし上げられた。

翌々年4月、ライチハから黒竜江の中にある島へ移動させられた。そこでは牛のえさにするための草刈りや農場の収穫作業を行なったが、これはトマトやジャガイモやトマトを食べることができ天国だった。

そして待ちに待った「ダモイ」がやって来た。ナホトカに着くと船を待つ多くのものが四つの収容所に待機させられていて、第一、第二、第三と進み、第四に入った後、船に乗る。そして昭和24年11月4日、小澤を乗せた日本の船は舞鶴港に入港した。しかしシベリア抑留者は他国の捕虜とは国の対応が違い、「終戦後は捕虜とみなされない」として一切の補償はなかった。就職に当たっても、シベリア抑留者はアカではないかとみなされ、苦労した。

シベリア抑留問題はあまりに大きすぎてその全貌を理解することはできないが、一人ひとりの体験者の話をつなぎ合わせて、少しでもその大きな悲劇の実態に近づきたい。

漫画という形で、父親の体験を表しその実態を紹介したおざわさんの努力に感謝したい。そして、若い人たちが手に取りやすい漫画という形式なので、是非多くの人たちに読んでもらいたい本である。

「凍りの掌」(こおりのて) おざわゆき著 小池書院 2012年7月24日発行 1238円+税
名前
URL
削除用パスワード
by irkutsk | 2014-08-12 20:08 | | Comments(0)