「終活なんておやめなさい」を読みました(12月10日)
最近はやりの終活ですが、著者のひろさんは、自分の死後のことをあれこれ考えるよりも、今をしっかり生きることだと言っています。自分の死後、家族にああしてこれ、こうしてくれと言うのは、家族にとって迷惑なだけと言っています。
葬式も親族だけでやるべきで、別にやらなくてもいい。やらなかったからと言って死んだ人がお浄土へ行けないということはない。戒名も墓もいらない。戒名は出家したことの証で、死者は在家のままで、仏さまにお浄土に連れて行っていただけるのに、どうして出家する必要があるのか。位牌もいらない。拝むのは位牌ではなくほとけさま。墓も不要。墓を作るということは死者への執着を残すことです。墓石というのは古来土葬が広く行われていたとき、埋めたら二度と出てこないように墓の上に重い石を置いたのです。
墓参りを年中行事にするのも愚。故人は墓の下などにいない。わたしたちの心の中にいる。さらに言えばお浄土に行ってしまっておられる。
散骨は大いに結構。勝手に散骨することは日本では埋葬法に抵触するのでできませんが、捨てるのは構わない。インドでは焼かれた骨はすべてガンジス川に流されます。墓を作って遺骨を納めるということはしません。それは輪廻する(49日たったら生まれかわる)からです。だから墓を作っても意味がないのです。お釈迦様の墓はあります。お釈迦様は輪廻しないからです。
年忌法要も必要なく、年忌法要をするようになったのは神道の影響で、またお坊さんたちの財政感覚もあって、続けられているのです。
人は何も持たない裸で生まれてきて、何ものも持たないで還っていく。その道理に気がつくことが、生死を明らめること。そのことをわきまえて生きるのが、人生を生きるということなのです。
仏教は最も弊害の多い煩悩を「三毒」といいます。貪ること、怒ること、愚かなことです。これらの火を消すことはできない。でも燃えている火に小枝をくべない。つまり執着から離れることです。怒りなら怒りの感情をあるがままに受け取ることです。
生前葬というのも流行ってますが、次から友達に会うときに、それが生前葬だと思ってあったらどうですかと著者は提案しています。「一期一会」、その人と会っている時間は、今この瞬間だけのもので、二度と戻ってくることはないのですから。
また世の中は役割分担でできていると言っています。つらい役、苦しい役もある。でも役割と幸福感は別物です。お金を持っていても不幸な人がいるし、貧乏でも楽しく幸せに暮らしている人もいます。
終活なんてものはする必要はないし、葬式、戒名、お墓、仏壇、年忌法要など必要ないということがよくわかる本でした。
「終活なんておやめなさい」 ひろちさや著 株式会社青春出版社 2014年5月21日発行 994円(Kindle版800円)