「愛と暴力の戦後とその後」を読みました(3月21日)
天皇はなぜ戦争責任を問われなかったのか。国民はどうして天皇の責任を追及しなかったのか。彼女は次のように言っている。「かの人の生身の肉体は生き残った者たちの免罪符 のようなものとなり、同時に無数ともいえる生き恥を代わってさらしてくれるものだったのではないだろうか」。
日本語についての考察もなされており、「日本語は異物を取り込みながら、それを解釈し、なおかつ異物は異物のまま眺められる(漢字やカタカナ)という独特な作法を発達させてきた。自分に入り込んだ他社は取り除けない。現代日本語は奇形でいくしかない。」と述べている。さらに「言語の最もすばらしい特質は、ないものを表現できるということだ。ないものを表すそのとき、母国語の特性を知っていることは最低条件。母国語の特性をきちんと知ることは、小学校や幼児の頃から英語を学ぶより、ずっと大切なことだ」と言っている。
また、「総括されないものは繰り返される」と言っている。「神を創って、そのもとにまとまり、戦(聖戦)を戦い、そして負けた。オウムも日本の歴史と同じだ。オウムが奇形集団というのなら、大日本帝国も同じ。それに接ぎ穂して成り立っている今の日本という国もずいぶん奇形である」。
自民党の憲法改正案について、「明治憲法とよく似ている。国民が国家権力に対して抑止力を持つ憲法本来のあり方よりも、国家への「義務を負う」の文言が目立つ」と言っている。
「国家、イデオロギー、すべてに先立って存在する権利が人にはある。その認識こそが「民主」主義の本質であるのならば、民主主義の体感を日本人は持ったことがあるだろうか。」と疑問を投げかけている。そしてこれまで持ったことのない感覚を「生得の権利」として行使することができるのかとも言っている。
現在の日本の政権は「かつての戦争から何も学んでいない。また戦争したら、この国は今度こそ自滅する」と。
なかなか面白い内容だった。確かに戦争責任は誰もとらなかった。処刑された戦犯の人たちが責任を取ったということにはならない。天皇自体が天寿を全うし、かつてのA級戦犯が総理大臣になり、戦後ほぼ一貫して政権を担ってきた自民党の中心人物は戦前、戦争を遂行してきたメンバーである。彼らが戦争遂行の責任を感じているなどという話は聞いたことがない。だれも責任を取らないまま、戦後になり、鬼畜米英を声高に叫んでいた輩が今度はアメリカに従属しながらなお権力を握るという何とも不可解な国が日本なのだ。
日本人の心に、責任の所在を明らかにせず、うやむやにしてみんなにその責任を分かち合わせようという構造があるのではないだろうか。
また責任は内部にあるのではなく、外部にあるとして、自らの責任を反省することなく、外部のせいにするというのは日本の組織によくある傾向である。そうすれば内部の人間は傷つくことなく、悪いのは外部の者だと言えば済むからである。
日本人の心のありようは全くもって不可解である。
「愛と暴力の戦後とその後」 赤坂真理著 講談社現代新書 2014年5月20日発行 840円+税