「満洲難民行」を読みました(7月12日)
本書は第一部「避難行」、第二部「大陸避難日記」、第三部「勤労奉仕物語」、第四部「35年後の対話」の4部構成となっている。
今井弥吉は1907年、長野県須坂町に生まれ、長野商業学校を卒業後、家業の金物屋をやっていた。戦時中上高井郡須町翼賛壮年団長となり、1945年100人の青年男女を率いて、旧満州上高井郷報国農場隊長として渡満。終戦を迎え、一年間の難民生活を経て翌年7月に生還した。
第一部「避難行」では1945年8月9日、ソ連参戦の時からの今井弥吉の体験が綴られている。彼はその日、出張先の東安市に滞在していた。彼は珠山にある自分の農場へ戻ろうとするが、北の方へ行くトラックは一台もない。翌日宝清へ向うという二人とともに北へ140キロ歩くことにした。北へ向って歩く人たちの中で今井の目に残る気の毒な親娘の姿があった。どこかの役所の課長のような人品の紳士が22、3歳の娘をいたわりながら歩いて行く。娘さんは胸を病んでいて入院中だったそうだ。通り過ぎるトラックを父親が必死になって呼び止めるが、運転手は見向きもしない。
「宝清へ向うトラックなど一台もない。勃利へ行くんだ。みな勃利へ避難という命令だ」とトラックの運転手に言われ、宝清県の人も勃利へやってくるだろうから、そこで待つことにした。トラックを乗り継いでいくうちに、偶然自分の隊の二人の女子と出会った。彼女たちは満拓宝清出張所へ6月から勤労奉仕に行っていたのだ。
勃利から牡丹江へ軍用列車に乗って避難するが、途中で止まってしまい、それ以後は歩くことに。避難途中にはソ連軍の飛行機が機銃掃射や爆撃を繰り返し、その都度草の繁みに身を隠していた。牡丹江でも混乱は続いており、たくさんの日本軍の軍需品が捨てられ、散乱していた。
彼らは8月13日以来5日間歩き続け、さらに265キロ先のハルピンを目指して歩くことになった。だが幸いにも手動式のトロリーに乗ってくる人がいて、そのメンバーに加えてもらい青雲駅まで行くと、避難列車が出発するところでようやく最後尾に飛び乗った。ハルピンからも新京行きの列車に乗ることができ、8月20日に新京に着いた。そしてここで日本の敗戦を知らされたのだった。
新京到着の日にソ連軍の入場式行われ、今まで左側通行だった市内電車が右側通行になり、ラジオも日本語放送は停止して、ロシア語と中国語だけになった。
ここで帰国できる日を待つことになるのだが、珠山開拓団の人々ともここで合流することができた。難民生活は筆舌に尽くしがたく、寒さだけでなく、病気で死んでいった隊員もたくさんいた。翌年7月15日に新京を出発し、錦州に到着し、そこで船の順番が来るまで数日待たされ、7月20日に出港となった。博多に着いたのは25日、そして信州・須坂へ帰りついたのは7月29日だった。
第二部「大陸避難日記」は、昭和20年3月に報国農場の先遣隊として渡満した川浦一雄が書いた日記である。彼の日記は8月9日ソ連参戦に伴い、「開拓団は宝清へ集合せよ」との命令を受け、隊員100名を連れて10日午前2時に避難を開始するところから始まる。途中、篠突く雨に打たれながら泥ねいはなはだしい山道を歩く。宝清へという命令も勃利へと変わり、さらに徒歩による避難が続いた。8月15日にはソ連気3機に襲われ機銃掃射を受け、以後数回にわたって襲撃と退避を繰り返すことになる。
国境守備の虎林部隊の撤退と一般開拓民の避難者とで道路は潮の押流すごとく人馬がなだれうって走る、走る、阿鼻叫喚、暗夜にわが子の名を、わが親を呼び求める声ごえ。
ソ連軍戦車が迫っており、勃利に向かうことは危険だということで、林口へ向かう。そして8月20日に日本が無条件降伏をしたという報告を受ける。
8月24日、林口でソ連軍に投降し、日本軍兵舎跡に連行された。周囲は鉄条網が張り巡らされ警戒は厳重を極めていた。そして8月29日、貨車に乗せられ牡丹江へ移送される。牡丹江周辺は日本軍の兵隊の死体、馬の死体が数知れず、異臭紛々として凄惨を極めきわめ酸鼻の極、正視するにたえない状態だった。牡丹江を過ぎ海林収容所へ入れられたが、周囲に鉄条網を張り巡らしただけの露天広場で、夜は寒くて眠れなかった。
その後牡丹江市内の日本造りの官舎の空き家に入れられ、10月18日には貨車に乗せられハルピンへ向けて出発し、10月21日には新京に到着。ここで今井弥吉らと再会することになる。
今井隊長は内地への送還は全く見込みがないので、越冬のためには労働して自活の途を立てるよりほかに方法がないと言う。
川浦は11月6日、男子隊を連れて一足先に奉天へ向けて出発する。奉天では春日小学校にに移動するが、ここも2千人ほどの難民が滞留していた。
更に大連へと南下し、大連では働きながら帰国できる時を待っていた。そして翌年11月10日、いよいよ引き揚げということで、「引き揚げ民仮説収容所に移されるが、ここで1か月近く待たされ、ようやく揚げ船に乗ることができた。
第三部「勤労奉仕物語」では国民の義務として盛んに行われた勤労奉仕について、壮年団長として、人集めから関わっていたが、「不言実行」「率先垂範」的精神は自分自身をも参加させずにはいられなかった。彼は昭和19年3月から5月にかけて、九州の炭鉱へいった記録を詳細に書き記している。応召につぐ応召で、戦時下の炭鉱も労働力が不足しており、朝鮮人をおおぜい強制徴用して送りいれたが、なお不足だった分を勤労協力令により、各県へ割り当てた。1日12時間労働の暗黒の地下深くで行われる採掘作業は過酷なものだった。
第四部「35年後の対話」では、1979年に本の編集者と今井弥吉の対談で、当時の長野県がどうしてこのようにたくさんの満蒙開拓団を送り込んだのかという当時の農村の状況や、満州へ渡った開拓団の生活などが語られている。
最後に「おわりに」の中で今井弥吉は次のように述べている。「昭和20年8月15日、この日私たちは終戦も知らずに、満州の広野を、無我夢中で逃げ廻っていた。8月9日、ソ連参戦するや、関東軍はほとんど戦わずして、撤退また撤退、全満は無秩序の混乱となり、とくに国境に入植していた三十万の開拓団員たちは、一瞬にして避難民と化し、それからの長い悲惨な逃避行と難民生活は、とうてい、筆舌に尽くしがたく、9万におよぶ犠牲者を出す結果となった。(中略)国策といわれて入植し、戦争協力といわれて、米も野菜もいっさい軍に供出し、自分たちは高粱と野草を食べても、祖国と関東軍を信頼して、営々と汗してきた開拓民たちはなんと愚直愚鈍であったことよ。全満をあの混乱に陥れた責任は思い。国とはなんぞ、国民とはだれのことか、国と国民の関係は?と、強く問い質したい。幸いに生きて帰れたものは、ふたたび更正の人生を持つこともできたが、異境に一命を落とした数万数十万のはらからに、なんと詫びてよいのだろうか、それを思いこれを思えば、断腸の苦しみだ。今となっては、怒る力も法もないのか、ああしかし、そんな政治が、今まだ、どこかで行われているような気がしてならない。これこそが問題だ!」
「満洲難民行」 今井弥吉著 築地書館株式会社 1980年11月20日発行 1600円+税