満蒙開拓団を描いた「望郷の鐘」上映会のお知らせ(12月22日)
山本慈昭は昭和20年5月に三つの村の村長に説得され、満州へ渡ることに。当時全国の都道府県から満蒙開拓団が満州へ送り込まれており、各県、郡、村にも割り当てがあり、開拓団を送り出さねばならなかった。1年間だけという約束で満州へ渡るが、8月9日に、ソ連が日ソ不可侵条約を破って満州へ侵攻してきた。関東軍は真っ先に退却し、その際に鉄橋を爆破していった。当初、開拓団に行くと徴兵されないということだったが、戦局が思わしくなくなると現地徴兵が行われ、開拓団には女・子どもと老人だけしか残っていなかった。彼らはソ連軍から逃れるため南へ南へと逃避行を続けるのだが、その行程は過酷なもので、多くのものが途中で命を落としていった。
山本慈昭ら一行はロシア兵に捕まり、シベリアに送られる。極寒の中での強制労働に耐え、1年半後に日本に帰国することができた。彼の出身地・阿智村はわずかな帰還者があったが、ほぼ全滅であった。彼の妻と子供たちも亡くなったと知らされる。
ところが慈昭のもとに中国から一通の手紙が届く。手紙は日本人孤児からのもので、戦争で離ればなれになってしまった子供たちが、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが詳しく書かれていた。慈昭は孤児たちの日本帰国救済運動に立ち上がり、厚生省へも何度も足を運んだ。そしてようやく国は重い腰を上げ、中国残留孤児の肉親捜しを開始し、その後里帰りや、帰国につながっていった。
今まで知られているようで、あまり知られていない満蒙開拓団の実態をぜひ多くの人に見ていただきたいと思います。