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「ヒトラーとナチ・ドイツ」を読みました(7月28日)

「ヒトラーとナチ・ドイツ」を読みました(7月28日)_d0021786_5533334.jpg第1次世界大戦でドイツ帝国は崩壊し、共和制となった。そしてワイマール憲法を制定したドイツがどのようにしてナチ党・ヒトラーの独裁体制へと進んでいったのかがわかりやすく書かれた本です。

1918年11月9日、社会民主党のフィリップシャイデマンはドイツ共和国の発足を宣言。ワイマール共和国の歴史が始まった。

1919年1月、ヒトラーはドイツ労働者党に入党。その時の党員は50名程度で、社会民主党や共産党に対立する右翼政党だった。その後、1920年2月24日に党名を「国民社会主義ドイツ労働者党」(ナチ党)と改めた。ヒトラーは議論をして何かを決めるという民主主義のルールを嫌い、選挙や議会に何の意味も見出さなかった。街頭での活動を重視し、集会での敵の妨害を覚悟し、25歳までの若者たちで突撃隊を作った。

戦後のドイツは巨額な賠償金を課され、ドイツがその支払いに応じないためフランス・ベルギー連合軍はルール地方を占領した。また政府は紙幣の増刷をし、空前のインフレ(1ドル=4兆2000億マルク)となった。

外国軍の占領に対する怒りは共和国政府に向かい、1923年11月8日~9日に右翼の牙城バイエルン州ミュンヘンで挙兵して、ベルリンへ攻め上がろうというクーデター(ミュンヘン一揆)がナチ党によって起こされたが、失敗に終わり、ナチ党はドイツ全土で活動禁止となった。ヒトラー自身も裁判で5年の要塞刑を言い渡されたが、翌24年12月には仮釈放された。

ヒトラーは獄中で「我が闘争」上巻を執筆し、出所後下巻を完成させた。1925年に上巻、1927年に下巻を発行したが、あまり売れず、上下巻を1冊にしたポケットサイズにし、1932年に9万部、1933年には108万部が売れている。

「我が闘争」に書かれているヒトラーの政治思想は次のようなものである。
1、強者は必ず勝利する
2、アーリア人はどの人種よりも優秀。
3、国家は民族の維持・発展のために役立たねばならない。
4、経済は国家に従属しなければならない。
5、議会主義=無責任体制。一人の責任者の責任で万事を決定。
6、社会的、階級的相違を超える民族共同体。
7、マルクス主義は民族共同体から生命を葬り去る墓堀人。
8、民族共同体が拒絶するすべてのことがらにユダヤ人が関与している。
宣伝はだれに向けられるべきか。学識のあるインテリではなく、永久に大衆に向けられるべきである。巨大な大衆の受容能力は限られており、理解する力も弱いが、忘れる力は大きい。宣伝はポイントを絞り、それをスローガンのように繰り返す。

1930年の国会選挙でナチ党は641万票(得票率18%)を取り、第2党に躍進した、そして1932年の大統領選ではヒトラーとヒンデンブルグの対決となったが、ヒトラーは負けた。

さらに1932年7月の国会選挙では1375万票(得票率37.3%)を取って第1党に躍進した。しかし608議席のうち230議席しかなかった。

1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領(85歳、プロイセンの土地貴族の系譜で君主主義者)の任命によりヒトラーは首相となり、国家人民党との連立政権を樹立した。しかしこの政権は議会で248議席しかなく、少数派政権だった。

ワイマール憲法には大統領緊急令という規定があり「公共の安寧と秩序」が著しく脅かされるなど国家が危急の事態に陥った場合は、大統領はその事態を克服するために「必要な措置」を取ることができるというもので、大統領緊急令は法律に変わるものとみなされた。また非常時に関する明確な規定がなく大統領の判断一つで大統領緊急令を出すことができた。

そして1933年3月に国会選挙を行うことになるのだが、その前に「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を出し、集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動を禁止した。

そんな中、1933年2月27日に国会議事堂が炎上するという事件が起こった。ヒトラー線府は共産党の国家転覆の陰謀だとして、非常事態宣言をし、左翼運動の指導者を一網打尽にした。さらに突撃隊による赤狩りやテロが行われた。

そして選挙で勝利したナチ党は1933年3月23日、授権法といわれる全権委任法を成立させた。これは立法権を政府に与え、憲法に反する立法も可能にするという内容であった。さらに諸政党が解体され、1933年7月14日には政党新設禁止法が作られ、14年間続いたワイマール共和国の議会制民主主義はわずか半年で合法性の装いを維持しながらナチ一党独裁にとって代わられた。

そして社会全体のナチ化が進み、3月選挙の後わずか3カ月でナチ党員は250万人を突破した。ナチ党員であることが出世の要件となっていた。

翌1934年8月、ヒンデンブルグ大統領が死去するが、その前に大統領と首相を統一し、総統とする「ドイツ国家元首に関する法」を制定していた。こうして権力を握り、その基盤を強化したヒトラーは、フランスからザール地方を住民投票により取り戻し、ベルサイユ条約を破棄して、「国防軍創設法」を制定した。国軍を国防軍に改め、一般徴兵制の再導入、空軍の創設、平時兵力36師団(58万人)とし、1936年にはフランス、ラインラントへ進軍した。

このようにして民主的なワイマール共和国はヒトラーの独裁国家へと変わっていったのであった。

現在の日本を見てみると、まさにドイツと同じことが繰り返されているような気がしてならない。自民党の憲法草案ではナチス・ドイツを同じ名称の国防軍を持つことし、マスコミの政府批判を封じ込め、選挙では大衆向けにポイントを絞り、それを繰り返す。自民党はナチ党の戦略を巧みに取り入れ、独裁政権樹立を目指しているように思われる。ドイツではわずか半年でワイマール共和国が崩壊した。この歴史の事実から私たちは学ばなければならない。

「ヒトラーとナチ・ドイツ」 石田勇治著 講談社現代新書2318 2015年6月20日発行 920円+税
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by irkutsk | 2016-07-28 05:48 | | Comments(0)