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「激突家族 井上家に生まれて」を読みました(1月28日)

「激突家族 井上家に生まれて」を読みました(1月28日)_d0021786_20431216.jpg井上ひさしの家族のことを三女・井上麻矢が書いている。東京郊外の市川市に家を建てた井上家は父と母、母の両親、三姉妹、そして犬のドン松五郎という家族だった。

小さい頃の父と母はいつも戦っているように見えた。父と母が喧嘩をしているという意味ではなく、真面目に彼らは考えるのだ。決して「まあ適当なところで」とか「どうだっていいじゃない」などとは言わない。

子どもの頃のエピソードで印象に残る話があった。
大晦日のよる、父がやっと書き終えた原稿を担当者の家に届けに行った。母があーちゃん(次女)をおんぶし、みーちゃん(長女)の手を引いて。担当者の家の玄関で2時間待たされ、おぶっていたあーちゃんを玄関に降ろしたら、担当者の奥さんに「汚いから子供を下に降ろすな」と怒られた。それから母は、家に遊びに来た人たちが寂しい思いをしないように、徹底的にサービスをしていた。仕事関係の人ばかりではなく、出版社の送迎の車の運転手さん、迷い込んだ犬にまで、井上家を訪れた人には気持ちよく帰ってもらおうというのが母のポリシーだった。

やがて井上家はひさしがオーストラリアの大学に呼ばれ、家族そろってメルボルンへ行くことになった。ところが、母はキャンベラの生活に限界を感じ、父とのけんかもだいぶ頻繁になっていった。そして父とみーちゃん(長女)を残し、母とあーちゃんと私は日本へ帰ることになった。

帰国後、ほんの何か月かいなくなっただけなのに郁ちゃんを除いては話しかけてくれる子はいなかった。そのため神経性胃炎になった。

高校はあーちゃんと同じ文化学園に入ったが、2年生から授業をさぼって一日中映画を見る日が続いていた。そしてフランスの映画学校に入りたいと思うようになり、日仏学園でフランス語を勉強した。18歳の3月、フランスへ出発。父の大学の後輩の家に泊めてもらい、その後パリ郊外のデュピュィ家にホームステイする。しかし日本では母に恋人ができ、父も他の人を好きになり、二人は離婚することになった。お金が送られてこず、帰国を決意。帰国したうちには両親の姿はなく、市川の家は閑散としていた。

最後に「あとがき」で筆者は次のように書いています。
「偏差値教育真っ只中の世代であったにもかかわらず、私と姉たちに素晴らしい映画と本とそれを楽しむ時間を存分に与えてくれた父と母に心から感謝します。一見何の役にも立ちそうにないそんな時間が、今の生活で私を助けてくれます。」
「そしてまた、若かりし頃の父と母が、浅草の路地裏や銀座の交差点に幻のように現れて、『人生は一度きり、自分という作品を作っているつもりで生きていきなさい』と精一杯励ましてくれます。」

「激突家族」 井上麻矢著 中央公論社 1998年5月30日 1400円+税
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by irkutsk | 2017-01-28 11:41 | | Comments(0)