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「7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還」を読みました(2月14日)

「7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還」を読みました(2月14日)_d0021786_9173144.jpg筆者は昭和17年8月に仙台陸軍教育隊に入隊し、第68戦隊に転属。ハルピンへ渡る。待っていたのは初年兵教育という名の暴力で、あまりの暴力にKは発狂した。筆者も洗濯物の汚れが落ちていないと言って革スリッパで連打され、右耳の聴力を失った。このような暴力を受けても、抗議することも、訴えることもできないところが軍隊だった。

12月30日には北満・竜鎮駅からハルピン行きの列車に乗り、その後三重県の明野飛行学校へ。そこで飛行機の整備技術を学び、翌18年3月31日横須賀へ向かう。そして18年5月26日ニューギニアのウエワクに到着。7月8日本体復帰を命ぜられ、ラバウルへ。当時すでにラバウル湾の入り口は敵の潜水艦の溜まり場だったため、物資の補給がなく、明けても暮れても乾パンと缶詰の食事だった。

18年9月23日、再びウエワクに。連日の出撃で未帰還者、負傷者が多く、戦隊の操縦者は17、8名に激減。稼働数も10機そこそこであった。

昭和19年3月中旬ごろ、菅野の属していた戦隊は完全武装で山側の密林に退避して設営することになる。菅野は病気で弱っているから、完全武装の行軍は無理だからここに残れと言われる。連日B25が超低空飛行で攻撃してくるここに残ることは死ぬということだった。「丈夫なうちは食事の世話から洗濯まで下僕同然にこき使いながら、少し弱ると猫の子でも捨てるように置き去りにする。人間味のかけらもない上官の仕打ちにまた限りない憤りが込み上げてきた」と菅野は当時の心境を述べている。

元気を回復し、ウエワク東飛行場から4キロほど密林内を行った窪地に移動していた部隊に合流する。この深い密林では動物もほとんど目に触れなかったが、夜になると鳥か獣かはわからないがキャーキャーと叫ぶ声が駆け抜けていた。ここに5か月間住んでいた。

第18軍の総力を結集したアイタベ作戦も、惨めな結果に終わった。近代戦において、1機の飛行機もなく、1隻の軍艦の支援もなく、腹ペコの兵隊が三八銃を振りかざして挑んだところで勝てるわけがなかった。これは戦後になって、当時の東部ニューギニアの状況がわかってからの見解であって、当時われわれ兵隊は、これらの事情は一切わからなかった。兵隊たちは上官の命ずるまま、アイタベに豊富な物資とともに上陸しているアメリカ軍を海に追い落とし、敵さんの給与にありつくのを夢見て戦っていた。

昭和19年4月半ば、健兵は100キロ以上もあるホーランジャまで行軍することになる。日本軍はライ、サラモア、ガリからウエワクを目指して行軍中、飢えと病魔でおびただしい犠牲者を出していた。セビックの湿地帯だけでも3千人を超えていた。その地獄の行軍をまた繰り返そうとしていた。

六十八戦隊が自活地として移り住んだのはセピック平原、ウェルマン集落だった。50名近い集落民が住んでいた。飢餓から手近に捕まえられる蛇、とかげ、百足、蝉、バッタ…手当たり次第になんでも口に放り込んだ。このウェルマン集落に駐留した41名のうち、生き残れたのは11名だった。

6月27日、前線出動命令が出た。出発して2日目。マラリヤ熱に倒れ、良くなったら後を追うということになり、菅野はじめ3名を残して、部隊は出発したが、その日の夕方、「先住民の待ち伏せ攻撃で小隊は全滅した」と船舶工兵隊の一人が幽霊のようになって帰って来た。

またある所では、「これから先は先住民に目を配るのは勿論だが、同胞であっても気を許すな。特に逃亡兵の中には良からぬ者がいて、身ぐるみ剝がれた挙句、肉まで食われたという風説もあるから注意しろよ」と警告された。

ニューギニア上陸以来丸2年、1通の手紙も受け取っていないし、新聞、ラジオもなく、ミッドウェー海戦で日本海軍が大打撃を受けたことも、東京大空襲も、米軍の沖縄上陸も全然知らされていなかった。私の脳裏には緒戦の頃の真珠湾攻撃とかシンガポール占領などの華々しい戦火のみが強く記憶に残っていたという。

8月22日、敗戦を知らされ、豪軍の捕虜となり、その後病院船で送還され、久里浜国立病院に収容。柏病院に転院し、故郷の福島県郡山国立病院に転院したのは昭和21年4月20日だった。そこでもマライや熱の再発や南京虫の襲撃に悩まされたのだった。

ニューギニア派遣軍14万人余りのうち、生存者は約1万人。生存率7%と言われている。
地獄の島・ニューギニアから帰還できた筆者の壮絶な体験が書かれた貴重な本である。戦後70年以上が経過し、戦争の記憶が風化し、再び戦争できる国にしようという勢力が力を増してきている現在、過去の戦争で何が行われていたのかを知ることは大切なことだと思われる。

「7%の運命 東部ニューギニア戦線・密林からの生還」 菅野茂著 MBC21 2003年5月26日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2017-02-14 19:14 | | Comments(0)