「君の膵臓を食べたい」を読みました(8月23日)
彼女は次の日、僕と同じ図書委員に名乗りを上げて、一緒に仕事をすることに。そして彼女に「君の膵臓を食べたい」と告白された。「昔の人はどこか悪いところがあると、他の動物のその部分を食べたんだって。だから私は、君の膵臓を食べたい」と、昨日テレビで見たと言って話した。そして彼女に日曜日、焼き肉の食べ放題に連れていかれる。牛の膵臓「シビレ」も食べた。
スイーツの店にも連れていかれた。期末試験が終わった後の、試験休みに彼女にいつものように呼び出されていくと、今日は一泊二日で旅行に行くのだという。新幹線に乗り、太宰府八幡宮へ行く。そして二人で一流のホテルに泊まる。
普通に生きていて、生きるとか死ぬとか、そういうことを意識して生きている人なんて少ない。事実だろう。日々死生観を見つめながら生きている人なんて少ない。
「死に直面してよかったことといえば、それだね。毎日、生きてるって思って生きるようになった」と彼女は言った。
僕達が食べるトマトパスタも、ぼくの一口と彼女の一口は、本人の感じている価値が全く違うかもしれない。
また彼女は自分に起こったことは、決して偶然じゃない。「私たちは、皆、自分で選んでここに来たの。君と私が、クラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私たちを会わせたの。私たちは、自分の意思で出会ったんだよ」と言う。
タイトルからいったいどんな内容なのかと思って読んだが、生きていることを考えさせられる本でした。人は生まれたとき、みんなあと80年は生きられると思っているが、人の命の長さは人によってさまざまだ。以前、人生をキャラメルに例えて考えたことがある。20個入りのキャラメルを食べ始め、次々に食べていくとき、最初のころはあと何個残っているなどと考えずに食べているが、残りが数個になると、その残りの少なさに気づく。人生も同じようなものだと思う。そして残された人生の重みも、残りが少なくなるほど重くなるはずである。
人はいつか死ぬことが決まっているが、それがいつかはわからない。だから死のことについて考えず、今、生きていることの大切さも考えずに生きている。だが、市は必ずやってくる。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。また10年後、20年後、30年後かもしれない。それがわからないから、人は今日と同じ日々が永遠に続くと思って生きている。年を取ると、終わりが見えてくる。残された時間をどのように使うのか。それが人の生きざまになるのだろうと思う。
「君の膵臓を食べたい」 住野よる著 双葉文庫 2017年4月27日発行 667円+税