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「シベリア抑留最後の帰還者」を読みました(2月9日)

「シベリア抑留最後の帰還者」を読みました(2月9日)_d0021786_612516.jpg明治32年、福島県山都町に生まれた佐藤健雄は旧制会津中学校を卒業後、東京外国語学校ロア語学科に進み大正12年に卒業した。故郷の家屋を親戚に譲り、母・マサとともに満州に渡り、大連の南満州鉄道に入社した。満鉄には調査部があり、仮想敵国ソ連の国力を調べることが、重要な責務の一つであった。ロシア語の専門教育を受けた健雄はそこに配属された。昭和3年、寺田とし子と結婚し、二人の男の子(長男は1歳ほどで病死)と4人の女の子をもうけた。北京、ハルピン、大連と転勤し、終戦は大連で迎えた。8月9日、ソ連が満州国に攻め込んできたとき、関東軍主力部隊はいち早く満州を放棄し、自国民を守ることはなかった。

健雄は満鉄きってのソ連通であり、ソ連との折衝を指揮した。そして交渉が終了すると健雄は連行された。当時、政府や関東軍は在留日本人を「賠償」としてソ連に提供したのだった。60万人がソ連に抑留され、ソ連各地で厳寒の中、過酷な労働を強いられた。約1割が抑留中に命を落とした。抑留は飢えと重労働、極寒との戦いだった。抑留当初はソ連は旧日本軍の軍秩序を維持・利用して捕虜たちを支配したが、その後「民主化運動」が始まり、ソ連礼賛、旧日本軍秩序破壊が進んだ。

健雄はチタ、スヴェルドロフスク、ウスチ・カメノゴールスク、ジェスカズガン、カラガンダ、ハバロフスクと6つの収容所転々とさせられた。また、満鉄調査部にいてソ連に関する調査活動を行ったとして「戦犯」として取り調べられ、矯正労働25年の判決を受けた。

抑留が始まって1年以上がたち、母国へ手紙を出すことが認められた。しかし、ソ連軍による検閲があり、抑留の実態を書くことは禁じられていたし、郵便を許可する抑留者はソ連軍によって選別されていた。ハガキはすべてカタカナで書く、「元気でいる」「心配しないで」以外のことを書くと内地に届かない、ペン、インクは各自で用意する、1週間以内に集約するというものだった。

1946年12月に始まった集団引き上げは1950年4月22日の「信濃丸」をもって中断した。スターリンが死に、「雪解け」が進む中、53年11月に3年半以上の空白を経て集団引き上げは復活した。抑留者と日本内地との往復はがきも復活した。佐藤健雄からの最初のハガキが会津若松の親戚宅に届いたのは、1952年の夏だった。家族がどこにいるか、また生死さえもわからず、親戚宅へ送ったのである。健雄のハガキが届き、一家は驚き、喜んだ。その後健雄と家族とのハガキのやり取りが進むのだが、出したすべてのハガキが届くわけではなく、ソ連当局によって破棄されたものもあったようだ。それでも52通の手紙が届き、家族の様子、健雄の様子が伝えられ、そのハガキを頼りに家族は健雄の帰還を待っていた。

この52通の手紙はファイルに入れられて大切に保管されていた。

1956年12月26日、最後の帰国船「興安丸」が舞鶴港に帰還した。健雄もこの船で帰ってきた。11年ぶりに日本に帰ってきた健雄を迎えたのは兄と息子の倫弘だった。抑留者は帰国しても抑留時代の夢を見て苦しめられていた。また帰国後もソ連帰りということで就職もままならず、帰国後も苦労は続いていた。

シベリア抑留の体験記はすでにたくさん出されているが、いったいどのくらいの人がこれらの本を読み、シベリア抑留の実態、どうしてシベリア抑留という悲惨なことが起こったのか、シベリア抑留者に対して日本政府はどういう態度をとったのか。日本人として知っておいてもらいたい過去の歴史である。

「シベリア抑留最後の帰還者」 栗原俊雄著 角川新書 2018年1月10日 820円+税
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by irkutsk | 2018-02-09 06:10 | | Comments(0)