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「夢のあとさき―帰郷祈願碑とわたし」を読みました(2月28日)

「夢のあとさき―帰郷祈願碑とわたし」を読みました(2月28日)_d0021786_1148266.jpgこの本の最初の部分には次のようなことが書かれていた。

1991年7月末、私は滞在先のとあるホテルで不思議な夢を見た。南の島とおぼしきだれもいない渚で私は一人佇んでいる。空はまるでトルコ石のように透明感のない鮮やかな青色だ。向こうから一人の青年が近づいてくる。人懐こい微笑みを浮かべながら私に近づいてくる。そしてこう言った。

「僕はね、ここで死んだんですよ。自衛隊の飛行機乗りだったんです。天皇陛下の御為に死んだことに悔いはないんですがね、ただ一つ残念なことがあるんです。それはね僕は朝鮮人だというのに日本人として、『日本の名前』で死んだことなんですよ」

彼が亡くなったのは自衛隊の飛行機乗りではなく、特攻隊の飛行機乗りだったのではないか。

4年後、読売新聞の日曜版に「女のしおり」というコーナーがあり、それへの原稿を依頼された。そして朝鮮人特攻兵のことを3回にわたって書いた。それを読んだ靖国神社の広報からから連絡があり、靖国神社を訪れた。夢に見たのはこの人ではないかと、1945年5月11日に沖縄戦で亡くなった光山文博(朝鮮名―卓庚鉉)という若者の写真を見せられた。彼は知覧飛行場を飛び立ち、沖縄西洋上にて戦死している。だが夢に出てきた青年がこの人かどうかよくわからなかった。

1999年5月30日、偶然ロケ先でテレビを見ていたら、特攻の母と呼ばれていた鳥濱トメさんのことを扱ったテレビ番組が放送されていた。そしてその中で光山さんの従妹・卓貞愛さんが出ていた。彼女に会うために黒田福美は釜山へ行く。

そして1985年、卓庚鉉さんの故郷・泗川市に日本人の光山稔さんという方がこの気の毒な朝鮮人青年を慰霊したいと泗川市西浦面に顕彰碑を建てようとしたが、マスコミに知られ「碑文が特攻賛美につながる」として地元で反対運動がおこり、断念していた。

その後、黒田福美も彼の故郷に慰霊碑を建てようとし、現地の人たちとも話し合い、碑文の内容も書き換え、のどかな田畑が広がる農道の一角に建てることに決まった。しかし話はその後、泗川市長をも巻き込んで、大々的になり、韓国のマスコミも大きく取り上げ、泗川市は最初200坪の緑地を提供すると言っていたのが、3000坪の公園に大きくなっていった。

だが2008年5月、慰霊碑の除幕式は現地の光復会と左派系政治団体「進歩連帯」が慰霊碑の建立に反対し、実力でも阻止すると通告してきた。やむを得ず予定されていた除幕式を中止し、その後慰霊碑は撤去された。慰霊碑はその後京畿道龍仁市にある法輪寺に置かれることになった。しかし光復会はさらに法輪寺にまで押しかけ、慰霊碑を埋めるように要求し、現在は八咫烏の彫像だけがじかに置かれ、碑文の書かれた本体は表面の碑銘を上にした形で4、5m離れたところに横たえられ、その胴体を半ば地中に埋めた形になっていて、その上に蓋をするような恰好で杉の木で作ったカバーのようなものがかぶせてある。

私も何度か韓国には旅行したことがあるが、個人としてみるといい人が多くお世話になったり、親切にしてもらったりしている。しかし、役所や国が出てくると、なかなか難しい問題が起こってくるようだ。黒田さんも最初の計画通り、のどかな田畑が広がる農道の一角に建てていれば、こんなごたごたにはならなかったのではないだろうか。

日韓の問題はなかなか根が深く、まだまだすっかり水に流しましょうとは言ってくれない状況である。それは日本政府の対応にも問題があるように思う。殴った人は早く忘れたいと思っているが、殴られた人はすぐには忘れられない。殴られた人が水に流しましょうと言ってくれるのをひたすら待つしかない。殴った人から水に流しましょうとは言うべきではない。

「夢のあとさき―帰郷祈願碑とわたし」 黒田福美著 三五館 2017年8月3日発行 1500円+税
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by irkutsk | 2018-02-28 05:44 | | Comments(0)