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カテゴリ:本( 431 )


「美しき鐘の声 平家物語1」を読みました(9月15日)

d0021786_2182025.jpg意訳で楽しむ古典シリーズの中の一冊で、読みやすい本です。平家物語は作者不詳ですが、きっと仏教に縁のある人が書いたんでしょうね。

この本では第1章「美しき祇王御前」、第2章「清水寺炎上」、第3章「平家にあらずは人にあらず」、第4章「鹿ケ谷の陰謀」、第5章「鳴動する西八条第」、第6章「鬼界が島の流人」、第7章「俊寛と有王」からなっている。

平家物語には「諸行無常」と「盛者必衰」が書かれています。

第1章「美しき祇王御前」では清盛が白拍子(宴会などで歌謡や米を披露する女性)で17歳の祇王にほれ込み、屋敷にとどめる。祇王の母に立派な家を造って与え、毎月百石の米と百貫の金銭を送り続けた。ところが3年経った頃、芸能界にキラリと光る新人が現れた。加賀の国出身の16歳の仏御前。彼女の舞を見て、清盛は仏御前に完全に心が移った。祇王に暇を出し、実家へ帰らせる。祇王は襖に一首の歌を書いて出ていく。
萌え出ずるも
枯るるも同じ野辺の草
いずれか秋に
あわではつべき

翌年、仏御前が寂しそうにしている。こちらに来て仏御前を慰めなさいという使者が清盛から来る。広間の下座に席が設けられており、仏御前を慰めるために歌わされる。
祇王はもう身投げをして死んでしまいたいと言い、妹も私も死にますと言う。母親はそれを聞いて、二人の娘を失って年老いた母一人、どうして生きていけましょう。私も一緒に身投げをしますと言うが、親を殺すことは五逆罪なので、祇王は嵯峨野の山里で浄土往生を願って念仏の生活を送るようになった。

その年の秋、仏御前が一人でやって来た。祇王が襖に書き残した歌を見るたびにまことの言葉だと思う日々であったという。人間の命はかげろうよりも短く、一瞬の稲妻よりもはかないのです。それなのに一瞬の楽しみにごまかされて、来世のことが気にならない自分が悲しくてなりませんと、清盛の屋敷を飛び出して、髪を切って尼になっていたのです。

「美しき鐘の声 平家物語1」 木村耕一著 1万年堂出版 2019年3月6日発行 1600円+税

by irkutsk | 2019-09-15 05:50 | | Comments(0)

「被爆アオギリと生きる」を読みました(9月14日)

d0021786_5305095.jpg沼田鈴子さんは22歳の夏に原爆で片足を失いました。そして近所にお風呂をもらいに行っていた時、子どもが沼田さんを見て泣き出し、そのお母さんに「沼田さん、お風呂には来ないでよ。子どもが泣くから」と言われます。義足をはいて逓信局へ通っていると、やんちゃな子どもたちが「足がない」とはやしたてるし、婚約者も戦死してしまうし。もう死んでしまおうと、何度も何度も自殺しようとしました。

その時に沼田さんは被爆アオギリ、片方だけ熱線を受けて焼け焦げたアオギリ、これは勤めていた広島逓信局の庭にあったアオギリなんですが。これから青い芽を出しているのを見て、ああ被曝しても頑張っているんだから私も頑張ろうと思って、その後、家庭科の先生として頑張りとおしたんです。長い間被爆体験を語ることはありませんでした。

58歳になって初めて被爆者だということを話し始めて、それから広島を訪れる高校生たち、中学生たちを一生懸命案内して、松葉杖を突きながら語っていきました。それだけでなく、子どもたちに話をするためにはあの戦争は何だったんだろう、なぜこんな原爆が落とされるまでの戦争をしたんだろうと、教えられなかった戦争を知る旅に出かけて行きます。

そして沼田さんは日本軍が各地で何の罪もない住民を殺してきた事実を知り、謝罪の旅に出ました。マレーシアで広島の第十一連隊が子どもを放り投げて銃剣で突き刺したり、住民を銃剣で背中から突き刺したりした事実を知り、謝罪のためにマレーシアへ行きました。この時、沼田さんの謝罪は、「私は広島にいて第十一連隊のしたことを何も知らずにいました。事実を知らないことの恐ろしさを知りました。日本人が皆様にご迷惑をかけ、みなさまがどんなにか苦しかっただろうかと思います。私は、十一連隊が行ったことを申し訳ありませんでしたと心からお詫びします」という挨拶をしました。その時、集まった大勢の人たちの何人かが松葉杖を突いている沼田さんに「足はどうしたんですか」と聞き、「原爆でなくしたんです」と答えると、その話をしてほしいと言われ、初めて被爆体験を語りました。駆け寄ってくれて、「あなたも大変だったんだね」と。とんでもない被害を受けていながら、とんでもない加害をしたことに一日本人として謝罪した。

また沼田さんは沖縄を訪問した後、次のように書かれていました。
「オキナワの吉が消え、再び安住の沖縄にかえったとき、死者たちは安らかに眠れるだろう。いまだに戦争の終わっていない沖縄である。戦争は絶対に許せない。戦争は人間の心をくるわせ、生活、文化、幸せ、命までも奪うのである。」

「被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言」 広岩近広著 岩波ジュニア新書740 2013年4月19日発行 860円+税

by irkutsk | 2019-09-14 05:27 | | Comments(0)

「子どもといっしょに読みたい詩」令和版を読みました(9月6日)

本書の初めに編者の水内さんは編集のテーマについて次の二つにしたと書いています。
・時代が変わっても、ずっと読んでもらいたい詩
・自然や人のあたたかさが伝わる詩

そして本書の構成はテーマ別に10の章に分かれています。1、おはよう 2、みんなの中で 3、ことばで遊ぶ 4、ことばを見つめる 5、いのちを見つめる 6、平和について考える 7、おぼえておきたい名詩 8、昭和から平成・令和へと 9、美しいふるさと 10、明日も

最初にこの本を開いて第1章「おはよう」を読み始めると、朝のさわやかな空気が感じられる詩がたくさんありました。朝はラジオ体操の歌ではないけれど、希望の朝ですね。ちょうどお正月に気持ちを新たにして、今年はこんなことをしようと決意するのですが、それはお正月だけでなくて、毎日朝が来るたびに今日一日を大切に生きようと思って過ごしたいですね。

そしてこの詩集が令和版ということですが、第6章の「平和について考える」では、みんながよく知っている詩人の方たちの平和への思い、戦争をしてはいけないという思いがあふれる詩が紹介されています。戦争を知らない総理大臣や国会議員が決して戦争を起こさないようにみんなで戦争について考えてみましょう。人殺しや人を殴る、いじめをするのはよくないことです。あたりまえです。でも戦争になったら、知らない外国人を殺したり、殴ったり、いじめたり、日本人同士でも戦争に反対する人を殴ったり、いじめたりするようになるのです。令和の時代も戦争のない時代でよかったねと言えるようにしたいですね。

一つ一つの詩に水内さんのコメントや解説が書かれていて、それもほっとさせてくれました。

詩集はいつでも読めるところに置いておいて、好きな詩をちょっと読んでみようと手軽に手に取ることができるようにするといいですね。

この詩集がより多くの人たちに読まれることを期待しています。

「子どもといっしょに読みたい詩 令和版」 水内喜久雄編著 PHPエディターズ・グループ 2019年8月13日発行 2200円+税
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by irkutsk | 2019-09-06 13:49 | | Comments(0)

小説「天気の子」を読みました(9月5日)

d0021786_11492029.jpg映画の製作と並行して書かれた「小説 天気の子」である。すでに映画を見たのでストーリーはわかっていたが、それでも小説は小説として十分楽しめた。新海誠の作品は、人間がどうこうできるものではない巨大な自然とその自然の中で生きる小さな人間の物語である。そして巨大な自然と小さな人間をつなぐものとして、巫女が出てきたり、今回は晴れを作り出せる能力を身につけた陽菜が登場した。しかし自然を変えるということはその代償を払わなければならない。その代償として陽菜は雲の上の世界に行かされるのだが、帆高は彼女を追って雲の上の世界へ行き、彼女を地上へ連れ戻す。

前作、「君の名は」で隕石がぶつかって死んだはずの三葉が死なないように歴史を変えてしまうのだが、今回も一旦雲の上の世界に連れ去られた陽菜を助けに行き、彼女を救い出すというところは同じだ。

自然現象に対して、人間がなんとかできると考えるのは傲慢な思い上がりに思えるのだが、今の社会、人間の力を過信し過ぎる人が多すぎないだろうか。

自然を利用するのはいいが、自然を変えることはできないと思う。

「小説 天気の子」 新海誠著 角川文庫 2019年7月25日発行 600円+税

by irkutsk | 2019-09-05 11:48 | | Comments(0)

「生きて帰ってきた男」を読みました(9月2日)

d0021786_20272656.jpg小熊英二の父親・小熊謙二の生涯を英二がインタビューして書いた本である。
謙二の父・雄次は新潟で結婚し、札幌で書店を開くが経営に失敗。2歳と1歳の子を連れて網走へ行き、役場の前で代書屋を営む。そこで片山旅館の長女・芳江と結婚する。1923年、謙二の祖父・伊七と祖母・小千代は片山旅館を手放して、東京へ行く。

1925年(大正14年)10月30日に謙二が生まれた。母・芳江は1932年7月、35歳で結核のために亡くなる。謙二は東京の伊七と小千代に引き取られ、育てられる。

1944年4月、徴兵検査を受け第二乙種だったが、11月20日には入営することになる。謙二が送られたのは満州の寧安だった。彼は航空通信連隊にいたが、この方面にはもう飛行機がなく、航空通信隊はやることがなかった。関東軍は、南方戦線や本土に戦力を引き抜かれた穴埋めに、1945年1月から大量の部隊を新設していた。残っていた既存の部隊から基幹要員を用意し、内地からの新兵や現地召集の老兵を補充して、新編成の部隊としたのである。しかし実態は、装備も訓練も不十分だった。

1945年8月9日、ソ連軍が侵攻してきて捕虜となる。チタ二四地区収容所第二分所に到着したのは10月28日だった。最初の仕事は自分たちを囲う柵を作ることだった。20日ほどでその作業は終わり、その後はさまざまな労役、土木作業や農作業に派遣された。大変な作業もあったが、楽な作業もあった。謙二が所属していた第五二大隊は混成部隊だったのでさまざまな出身者が入り混じっていた。しかしこうした雑多な編成だったがゆえに上下関係は厳しくなかった。1945年から46年の冬が最悪だった。ソ連経済そのものが窮迫していた。

最初の冬が終わった後は、捕虜の中で経験や知識があるものは、電気工や大工、床屋などの技能職に就いた。

謙二は自分が生き残れたのは二つの理由がある。一つは混成部隊に入れられて、収容所で階級差別がなかったこと。もう一つは収容所の体制改善が早かったことだと言う。

民主運動についてはそれへの参加度が帰国人選に影響したかどうかは不明である。しかし、ソ連軍の意図以上に仁尾hンの捕虜たちが過剰に運動した側面があったと振り返っている。

1948年8月、日本へ帰国し、その後職場を転々とし、1951年肺結核の診断を受け、療養所生活を強いられることになる。1956年に退所するまでが謙二にとって一番つらい時期だった。

「生きて帰ってきた男」 小熊英二著 岩波新書1549 2015年6月19日発行 940円+税

by irkutsk | 2019-09-02 05:23 | | Comments(0)

「凍土の共和国 北朝鮮幻滅紀行」を読みました(8月8日)

d0021786_217346.jpg朝鮮総連の活動家で朝鮮商工会の役員として活動している著者が、帰国運動の中、1960年に北朝鮮へ渡った兄、姉、従兄を訪ねて祖国訪問事業で1980年代に新潟から万景峰号で北朝鮮へ渡り、そこで1か月以上を過ごした紀行文である。

近くて遠い国と言われる朝鮮民主主義共和国。その実態は未だ秘密のヴェールに覆われ、庶民の生活はほとんど見えてこない。そんな祖国を訪問して、驚愕の事実を知った著者が書かずにはいられなかった庶民の姿を非常にリアルに描いた名作である。

新潟を出航した万景峰号は翌日には北朝鮮の清津港に着く。肉親が港に迎えに来ているかと思いきや、誰もおらず、失望する。すぐにも肉親に合えると思っていたのに、金日成像や凱旋門、金日成の生家参り、革命博物館見学、主体思想塔、革命歌劇の鑑賞など毎日が学習の日々で、なかなか家族には会わせてもらえない。

ようやく日程も後半を過ぎ、残り数日なってから家族の家を訪問できた。しかしそれには平壌から同行した案内人(指導員先生)、それにS氏の指導員2名、僑胞部の指導員2名が同席し、夕食も一緒に食べる。彼らに土産をやらなければと従兄が言う。土産をやると帰るという。

4日間家族の家にいたが、最後の日、日本円で4000万円余りもする様々なものを、家族を通じて要求させた。それを送ってくれれば家族を昇進させるという。

1959年から始まった帰国事業では、北朝鮮は「地上の楽園」と言われ、祖国の社会主義建設に参加しようと意欲に燃えた若者たちがたくさん北朝鮮へ渡った。しかし「地上の楽園」などではなく、「帰胞」として差別された。そういう実態が漏れ伝わり、帰国者は1962年からは大きく減っている。そして1982年をもって終了した。

北朝鮮の実態を知るのには貴重な一冊である。

「凍土の共和国 北朝鮮幻滅紀行」 金元祚著 亜紀書房 1984年3月25日発行 1700円

by irkutsk | 2019-08-08 05:29 | | Comments(0)

「泣くな研修医」を読みました(7月29日)

d0021786_13533976.jpg大学を卒業して、医者になったばかりの研修医の物語。一応医者にはなったが、経験はゼロ。いったい何をどうしたらいいのか、よくわからないことだらけ。

実家のある鹿児島大学医学部を卒業し、4月から一日の外来患者が1000人、救急車受け入れは1年に3000台、ベッド数が500床の東京の下町にある総合病院で勤務することとなった雨野隆治の物語である。

彼の勤めるこの病院では、医師歴1年目の研修医は基本的に4、5年目の医師(後期研修医と呼ばれる)と一緒に当直を行う決まりになっていた。この日隆治と一緒に当直をするのは佐藤玲だった。テレビを見ながら夕飯を食べていたら、ニュースで、高速道路で車が正面衝突したというニュースをやっていた。そしたらその事故の患者さんが運ばれてくるという。

正面衝突の親子で、運転手の父親は無傷、母親が鎖骨骨折、5才の子どもが腹壁破裂だった。両親は整形の先生に診てもらい、隆治たち外科医は子どもの対応をすることに。押さえてあるガーゼを取り除くと腸が見えている。先輩医師の佐藤は「腹壁破裂と長官脱出、一部損傷あり」と診断する。すぐに手術を行い、子どもはICUに移された。山下拓磨くんは口からは挿管されたチューブが出ており、そのまま大きな人工呼吸器の器械につながっていた。鼻からも経鼻胃管と呼ばれるチューブが出ていて、ベッドサイドに吊るされた小さなバッグに繋がっていた。この小さな人間を、隆治は何としても生かしたかった。

Part2では94歳の生活保護の一人暮らしの男性で、胃の前庭部に巨大な腫瘍がある。さらにリンパ節にも転移している。外科のカンファレンスではがんの治療をやらないということに決まった。この決定に隆治は納得がいかず、同期の川村に話をするが、彼は「手術して命を伸ばすからには、その人とかその家族とかが幸せにならなきゃダメだろ」と言われる。

他にもいくつかの事例があげられ、隆治がそれにどう立ち向かっていくのかが描かれている。医師の仕事の大変さ、そして患者が治って退院していくときの喜びなどを垣間見ることができるおすすめの一冊である。

「泣くな研修医」 中山祐次郎著 幻冬舎 2019年2月5日発行

by irkutsk | 2019-07-29 05:51 | | Comments(0)

「医師が診た核の傷」を読みました(7月14日)

d0021786_1632986.jpg本書の表紙の見返しに書かれている文を引用しておく。
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本書は、血液や甲状腺の専門医をはじめ、臨床経験の豊富な内科医や精神科医などが「核の傷」について報告している。原爆と原発による「核被害者」を医師が診た記録として、これだけ総合的に捉えた単行本は類がなく、貴重な資料でもある。
【衝撃の内容】
福島で十五歳のとき原発事故に遭遇し、ニ十歳で甲状腺がんの手術を受けた患者の病理組織が、チェルノブイリの小児に見られた放射性ヨウ素による傷害と同じだった。東京電力福島第一原発から放出された放射性ヨウ素が原因とみられる甲状腺がんであることの例証になることだろう。
【驚愕の内容】
外務省は「放射線が人体に与える影響」について委託研究を行ったが、研究者によれば提出して報告書から、次の文言を削除したという。<核兵器は非人道的なものと言わざるをえず、今後決して二度と使用されないこと、新たに作られないこと、さらに究極的には廃絶されるべきこと、を本研究の結論とする>。核兵器禁止条約に署名しない、被爆の国の姿勢は改めて問われよう。
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本書は原爆編と原発編に分かれており、原爆編では原爆による急性障害だけでなく体内に残った放射性物質が遺伝子を傷つけ続け、長い年月にわたって様々な病気を引き起こしているという。
原爆と人間について、秋月医師は「長崎原爆記」で考察を述べている。
<私のいつもゆきつくところは、原子爆弾を投下したアメリカへの憤りではなく、この悲惨を知りながら、あえてこれを行った人間の心の恐ろしさであった。これゆえに、人間は幾千年来、殺し合いを繰り返してきた。被害者である私たちにも、立場が異なれば、いつ、いかなる場所に原爆を投じないとはいえない>

原発編では「モニタリングポストは地表1mで測定しているが、地表に近い所には想像以上に高濃度の放射線が漂っている可能性があり、よちよち歩きの赤ちゃんが放射性物質が混じった空気を吸い込んでいるかもしれない」とか「放射能の影響は、低線量の場合、直ちに現れなくても、数年、数十年たって明らかになることがあります」などの指摘がなされている。また、健康被害の立証は非常に難しく、被害を受けた人たちが因果関係を立証しなければならない。

第6章「老朽原発が生み出す労働者被曝」では阪南中央病院副院長・村田三郎さんが次のように言っています。「巨大な科学技術の陰に原始的な被曝労働者がいる。それが原発なのです。残念ながら作業員の健康被害は避けられません」、「生活のかかった被曝労働者の足元を見透かし、その健康を犠牲にして、原発は成立しているのです」。

「あとがき」で広岩氏は次のように廃棄物処分について危惧している。「原発から出る高レベル放射性廃棄物の処分方法は、地下300メートルより深い地層に数万円以上にわたって埋設隔離する方針だが、その最終処分場はいまだ決まっておらず、原発を再稼働し、核のゴミを増やし続ける原発政策の先行きを考えると暗澹としてくる。」

広島、長崎への原子爆弾、福島第一原発の重大事故を経験したにもかかわらず、どうして原発をやめられないのか。金と命のどちらが大切なのか。

「医師が診た核の傷」 広岩近広著 藤原書店 2018年9月10日発行 2200円+税

by irkutsk | 2019-07-14 16:03 | | Comments(0)

「朝鮮に渡った『日本人妻』―60年の記録」を読みました(7月7日)

d0021786_634899.jpg1959年から始まった北朝鮮への帰国事業で夫や家族と日本を離れ、朝鮮民主主義人民共和国へ渡った日本人妻たちの今を取材したフォト・ドキュメンタリーである。その概要は以下のとおりである。
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この本の第1章では九州宮崎県出身の井出多喜子さんについて書かれている。
井出多喜子さんは1927年4月30日生まれ。15、16歳の時にバスの運転手仲間で6歳年上の史大順さんと知り合い、結婚。両親は反対し、結婚式もあげていない。1948年長男・順次さん、1950年長女・順子さん1953年次女・喜美子さんが生まれる。そして1961年9月1日、帰国事業で北朝鮮へ渡る。

帰国事業とは
1959年12月から84年7月にかけて日本に暮らす朝鮮半島にルーツを持つ人々が北朝鮮に移住する帰国事業が行われた。主体となったのは日朝の赤十字。この事業で日本から海を渡った在日朝鮮人とその家族は93,000人。そのうち日本人妻やその子どもたちなど日本国籍保持者は役6800人。日本国籍を持つ日本人妻に限れば1,830人。

1910年韓国併合により朝鮮を植民地化して以降在日朝鮮人は急増。1911年2500人。1945年の終戦時には200万人を大きく超えていた。1950年5月までに約140万人が帰国。終戦後の日本における朝鮮人に対すら職業差別もあり、土木業やパチンコ業、くず鉄業、日雇い仕事などに限られ、在日朝鮮人の完全失業率は5.14%と日本人の約8倍に上っていた。さらに河川敷にバラックを建てて居住する朝鮮人集落も見られた。1959年12月の帰国者のうち、生活保護受給者は41%を超え、さらに59年12月から67年12月までの間に帰国した8万8600人余りにうち、成年男子の39.6%が無職だった。帰国事業で朝鮮半島北部へ帰国した在日朝鮮人の約95%以上は、故郷が朝鮮半島南側にあった。帰国事業が行われた1950年代から60年代にかけては、世界的にも社会主義の勢いがあった。韓国では李承晩大統領による独裁政権が続いており、不安定な状態であった。一人当たりのGNPは韓国側の統計でも韓国79ドル、朝鮮民主主義人民共和国137ドルだった。近い将来に北主導の南北統一が実現し、南の故郷と行ったり来たりできるようになると思っていた帰国者も多くいた。海を渡った日本人妻の女性たちには、三年後には日朝間で行き来ができるようになるという認識があった。途中中断することはあったが、1984年まで25年間にわたって帰国事業は行われた。清津に到着した帰国者たちは、市内の宿泊所で数日過ごした後、首都平壌や内陸の農村部、海辺の町など各地へ散らばった。

井出多喜子さんが若い頃、日本人たちが集まり懐かしい日本の歌を歌ったりすることもあったという。90年代前半には行政当局から日本人妻たちに便宜が図られるようになり、金剛山や平壌、白頭山などへの団体旅行が催されるようになった。

第2章 堀越恵美さん
1934年9月18日、東京で誕生。夫の宗順植さんは11歳年上で、恵美さんの実家の近くに下宿していた。両親は結婚に反対。22歳のとき両親の反対を押し切って一緒に暮らすようになった。1年後、子どもが生まれる。1960年6月10日、恵美さん25歳のとき帰国船で北朝鮮へ帰る。渡航後は平壌で暮らす。

第3章 皆川光子さん
1939年1月1日、東京で生まれる。生後100日で北京に渡り、小学1年生まで過ごす。
1945年8月、終戦後、札幌・円山公園の近くへ引き揚げる。19574月、北海道大学水産学部に入学。2年生からは函館に移るので、指導教官のうちに下宿し、4歳年上の崔和宰さんと知り合う。彼は隣家の家庭教師をしていた。同じ北大水産学部で動物発生学を学んでいた。結婚のとき親兄弟、親戚は反対し、学校の教授や友達は賛成してくれた。当時、朝鮮民主主義人民共和国は毎年多額の教育援助金を在日本朝鮮人教育界宛に送金していた。ファジェさんも奨学金を受けていた。
1960年2月23日、函館の式場で結婚式を挙げる。光子さんの親族は誰も出席せず。結婚式後、ファジェさんの実家がある京都へ行き、そこで1か月過ごす。1960年4月、新潟へ向かう直前に札幌に立ち戻り、両親に会う。1960年4月8日、第16次船に乗って北朝鮮へ。出航に先立ち、帰還者一同は日赤センター内に桃とバラの記念植樹を行った。日赤センターに二泊三日間お世話になったお礼と、桃が成長し美しい果実をつけるころ日朝が自由に行き気ができるようになることの願いを込めての植樹だった。

帰国後は元山で金光玉という名前に。夫のファジェさんは水産研究所で働く。
1960年11月、長女を出産。「子どもを産んで、抱いたその瞬間に、初めて母親の気持ちがわかりました。自分は目先の幸せばかりを考え、自由に生きることを優先したけれど、母は娘である自分のことを一番考えてくれていたんだと‥‥。

「二年ぐらいは、言葉もわからず、あまり人と話しませんでした。付き合いもありませんでした。それでも三年目くらいに急に話せるようになるのを実感するようになったんです。この頃になると、朝鮮の名前で呼ばれることにも慣れてきました」
1993年頃から毎月1回、元山の日本人の女性たちの集まりが行われるようになった。食事をしたり、旅行をしたり。この交流会は高齢化のため10年ほど前に自然になくなった。

1997年11月、第1回目の里帰り事業で日本へ。しかし母は1990年に亡くなっていた。
2014年2月、夫のファジェさん脳出血のため亡くなり、現在は長女の崔仙姫(55歳)さんと二人暮らし。

第4章 新井瑠璃子さん
1945年敗戦時、海外には軍人、民間人あわせて700万人いた。38度線の北側にいた日本人は約30万人。敗戦後、引き上げる途中で親とはぐれて残留孤児となった。

1933年1月15日ソウルで生まれた。1935年のソウルの人口44万4000人中日本人は約12万人(27%)。瑠璃子さんの父は鉄道員として朝鮮半島へ派遣されていた。7歳の時一度だけ、熊本県の阿蘇に暮らす祖父母のもとへ10日間ほど行った。それが唯一知っている日本だった。

1944年春、父の転勤で朝鮮半島北部の会寧へ。1年後父に召集令状が来た。1945年8月初旬、知り合いの朝鮮人労働者から日本へ帰らなければと言われ、母親、弟とともに逃げる。1か月以上かかって400キロを歩き続け、退潮駅までたどり着く。退潮駅には避難してきた日本人があふれており駅に停まっていた汽車に乗り込み咸興駅に着いた。すでに初秋だった。当分の間汽車は動かないと言われ、駅近くの5階建ての旅館に行くように言われる。翌朝目覚めると、継母の5才の息子と2歳の娘が死んでいた。二人を埋葬した帰り道、リンゴ畑を見つけリンゴを取ってきて、「お金が必要になるかもしれないから、市場で売って来なさい」と言われ弟と二人で売りに行くが、弟はすぐに旅館に帰っていった。ひとりで売っていると朝鮮人の男の人に声をかけられ、「親はいないの?」聞かれ、「親はいません」と答えたので、その人は「家においで」と言って連れて帰った。ぜんぜん知らない人なのに、何となく親しみを感じてついて行った。瑠璃子さんを引き取った男性は夫婦二人と子供二人の四人家族だったが、2,3か月後に咸興を離れ故郷へ帰ることになった。瑠璃子さんは咸興を離れたくなかった。夫婦は娘がいない朝鮮人夫婦が養女を迎えたいというのでそのうちに行くことになった。この両親から「リ・ユグム」という名前をもらった。この夫婦は日本を嫌っていたが、瑠璃子さんに対しては、わが子と同じように育ててくれた。

1960年の夏、9歳年上のトン・ビョンフルさんとお見合いをして結婚。1963年息子のチョルウンさんが生まれる。この頃、勤めていた工場に帰国事業で渡ってきた「日本人妻」が勤務するようになった。その人に日本へ手紙を書くことを勧められ、手紙により、弟や義母、父親も無事に日本へ帰っていたことが分かった。咸興に住む「日本人妻」中本愛子さんと日本人同士の集まりで知り合う。彼女は瑠璃子さんより2歳年上で、熊本県出身。

第5章 かなわない里帰り
ここにいる「日本人妻」の三人全員が二十代、三十代のときに新潟を離れてから一度も故郷の土地を踏んでいない。瑠璃子さんは七歳のときの日本の記憶があるのみだ。彼女たちは、今の日本に生きる私を通して、どんな日本の現在を想像しているのだろうか。そして、そこに彼女たち個人の記憶がどのように交差しているのだろうか。私はどこにもやり場のない、やるせない気持ちを感じながら、いつもの別れと同じように、ただただ手を振り続けることしかできなかった。

あとがき
あの時代に民族差別や貧困に苦しんでいた多くの在日朝鮮人が、日本での将来に悲観的にならざるを得なかったのは事実であり、その時代に行われたのが「帰国事業」だったのだ。彼ら・彼女らを取り巻く歴史的・社会的は池、そして当時の国際情勢を振り返ったときに、時代と政治に翻弄されながらも、強く生きてきた人たちの思いをいまあらためて振り返り、故郷である日本の土をもう一度踏みたいと切実な願いを「人道的」な事業として、何とかかなえてほしいと思っている。
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帰国事業で北朝鮮に帰っていった人たち、そしてその妻として同行した日本人妻たち、桃が実をつけるころには日朝の間を自由に行き来できるようになっているだろうと期待していたが、彼女たちは帰国事業で一時帰国ができた一部の人たちを除いて、死ぬまで祖国の土を踏むことはできないかもしれない。高齢化し、余命いくばくもない「日本人妻」の気持ちに寄り添った一冊である。

「朝鮮に渡った『日本人妻』―60年の記録」 林典子著 岩波新書1782 2019年6月19日発行 1,040円+税

by irkutsk | 2019-07-07 11:04 | | Comments(0)

「星のかけら」を読みました(6月20日)

d0021786_14512625.jpg5年生のころからいじめられている小学6年生のユウキ。彼を守ってくれる幼馴染で同級生のエリカ。塾で知り合った私立小学校に通うマサヤ。いじめっ子のヤノ。

それを持っていれば、どんなにキツイことがあっても耐えられるというお守り「星のかけら」。うわさでは誰かが亡くなった交通事故現場に落ちている車のフロントガラスの破片のことらしい。マサヤに誘われて「星のかけら」を探しにバイパスへ行く。そこで二人は小学校2、3年生らしき女の子に出会う。

「星のかけら」を見つけて光にかざすと、女の子が現れる。その子は6年前に交通事故で亡くなったフミちゃんだった。彼女のおかげで、いじめっ子のヤノ、マサヤの兄のタカヒロ、そしてフミちゃんのお母さんミチコさんさんも変わっていく。

生きるということを考えさせられる一冊でした。

「星のかけら」 重松清著 新潮文庫 2013年7月1日発行 460円+消費税

by irkutsk | 2019-06-20 14:51 | | Comments(0)
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関心のあるいろんなこと書きます


by irkutsk
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